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【球跡巡り・第65回】セ・リーグ盗塁王を育んだ 競輪場に隣接した野球場 防府市営球場

 「カーン!カーン!カーン!」。競輪のレース、残り1周半。乾いて澄んだ鐘の音が三方を山に囲まれたリンクにこだまします。本州最西端にある山口県防府市の防府競輪場。そこに隣接する広い駐車場は、競輪開催日には来場客の車で埋まります。スタンドやフェンスが残され、かつて野球場だったことを偲ばせるこの場所は、中国地方で初のプロ野球公式戦を開催した防府市設野球場(のちに防府市営球場)でした。

 その歴史は古く、開場は1928年2月。近くにあった曹洞宗創立の「第四中学林」に九州移転の話が持ち上がり、それを引き留めようと防府町(現防府市)は町設の総合グラウンドを建設。スタンド付き野球場のほか、1周400メートルのトラックに200メートルの直線走路などの施設を整え、学校には無償で優先使用権を与えました。

 その球場で中国地方の球史の幕開けとなる一戦が行われたのは1948年7月31日。阪急と急映が対戦し4対0で阪急が勝ちました。阪急の先発マウンドに立った今西錬太郎投手の投球内容は圧巻で、一度も二塁ベースを踏ませることなく被安打2、94球で急映打線をシャットアウト。午後1時56分に始まったゲームは、時計の針が1周したばかりの3時6分に終了。試合時間わずか1時間10分ですから、驚きです。

 この場所に冒頭の競輪場が1949年9月に新設されたのに続き、野球場は1950年3月に全面改築してオープン。プロ野球は1957年までに7試合(セ5、パ2)の公式戦を開催しました。この間に第四中学林は、学校の制度改革により新制高等学校となり「多々良学園」と校名変更しましたが、野球場の優先使用権は変わらず、野球部の練習場として使用されました。

 「ここは私にとって野球の原点です」と語るのは主に横浜大洋で活躍し、1984年には56盗塁でセ・リーグ盗塁王に輝いた高木豊さん(64)です。多々良学園(現高川学園)に在校した1974年から3年間、野球部の練習で汗を流しました。

 父親の仕事の都合で転居が多かった少年時代。「愛媛県大洲市に住んでいた小学5年生の時に、地元の松山商業が夏の甲子園大会で優勝しました。ピッチャーは井上さん。サードが谷岡さんでショートは樋野さん。みんなかっこよくて、憧れましたね」。そんな高木さんが、中学3年生の秋に移り住んだ防府市で選んだ進学先が多々良学園でした。

 「競輪の大きなレースが行われる時や週末は、野球場が駐車場になり使えませんでした。その代わり、雨が降って野球場が使えない時には競輪場の屋根がある場所で練習させてもらいました。持ちつ持たれつの関係でしたね」と当時を振り返ります。1年生の秋にはエース、三番打者として県大会優勝を果たし中国大会に出場。初戦で広島工業にノーヒットノーランを喫し敗れますが、高木さんは相手打線を2点に抑え存在感を示しました。

 校庭のグラウンドではなく、外野フェンスに囲まれた野球場での練習は自らの成長度を体感できる好環境でした。「1、2年生の時は、打撃練習でもライトフェンスを越す打球は打てませんでした。バットをしっかり振り込み、3年生になると打球がオーバーフェンスするようになり、成長を実感できましたね」。身長173センチメートルと小柄ながら、パンチ力ある打撃と秀でた走力を備えた高木さんの存在はプロ野球界にも知れ渡り、防府市営球場のスタンドにはスカウトの姿があったと言います。

 「まさか自分がそんな選手になるとは思いもしませんでした。同い年の原(辰徳=東海大相模)が進学すると聞き、その道もあるのかと。自分も大学に行ってからでも遅くはないと思いました」と中央大学に進学。原とともに日米大学野球選手権大会などで活躍し、1980年ドラフト3位で横浜大洋から指名を受けました。

 思い起こせば、高校時代の練習は苦しく辛いものばかりでした。そんな中、球場には選手たちを癒してくれる場所があったといいます。「三塁側の球場の外には小川があるんです。そこにボールが飛んで行くと、みんな我先にと拾いに行きました。目的はもちろん、水を飲むため。競輪場の敷地だった一塁側に飛んだボールなんて、誰も拾いに行かなかったなあ」と苦笑いしました。

 高木さんが高校を卒業してまもなく半世紀。青春時代を過ごした地も遠くなりと思いきや、今年の正月も野球場のすぐ近くにある防府天満宮を参拝のために訪れたそうです。「球場には行きませんでしたが、あの辺りに行くと高校時代を懐かしく思い出しますよね」。グラウンドこそアスファルトで舗装されましたが、コンクリートむき出しのスタンドや一塁側ベンチは往時の姿をとどめ、レトロ感たっぷりの“球場遺跡”が今も残されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・高木豊さん
防府市立図書館