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【記録員コラム】春季キャンプ地トリビア

 まもなく2024年の春季キャンプが始まります。そこで今回は過去のキャンプ地にまつわるトリビアをピックアップしました。

空港の滑走路をランニングしてホールドアップ

 今では“キャンプ銀座”となった沖縄県。今年は9チームの一軍が春季キャンプを行います。その先鞭をつけたのは1981年に名護市営球場(現タピックスタジアム名護)でキャンプを張った日本ハムと思われがちですが、実はその24年前の1957年2月にパ・リーグの大映スターズが本土復帰前の沖縄を訪れています。
 経費削減のため、キャンプを本拠地で行う球団もあった中での大盤振る舞い。航空機で松木謙治郎監督以下30名が海を越えられたのは、沖縄で大映のプリントを配給していた「沖縄映画会社」がスポンサーとなり招聘してくれたからでした。
 南国でのキャンプに暖かさと晴天を期待したはずでしたが、連日雨にたたられ19日間の滞在期間中、快晴は3日だけ。加えて、整備の行き届かないグラウンドに四苦八苦します。当時の沖縄に本格的な野球場はなく、陸軍や海軍のそれを日替わりで借用しましたが、直前までフットボールの大会が行われていたこともあり荒れ放題。苦肉の策として、舗装されているからという理由で那覇空港の滑走路を借りてランニングをする有り様でした。
 事件が起きたのはその時です。1000メートルほどの直線コースを走っていると、急に三機の小型機が着陸し、小銃を持った兵隊がジープで駆けつけ退去を伝えました。日系二世の与儀真助選手が「野球場が整備中のため、滑走路を使うよう軍から許可が下りている」と言っても通じません。中には小銃を見て両手を挙げた選手もいました。その後、空軍部隊との連絡が不十分だったことがわかり事なきを得ましたが、野球未開の地での初キャンプの苦労が伝わります。
 松木監督は沖縄を離れる際、「将来、日本のプロ野球チームが沖縄を毎年キャンプ地にするかもしれないから、是非民間の野球場がほしい」と新球場建設を懇願。沖縄初の野球場(奥武山球場)が完成したのはその3年後、1960年11月でした。

どこへ行っても雪に見舞われて

 かつての春季キャンプは、寒さと天気との戦いでもありました。1960年代半ばまで甲子園球場でキャンプを行っていた阪神の報道記事には「白雪をいただいた六甲から吹き下ろす寒風は…」とあり、厳しい寒さが伝わります。また、キャンプ地に屋内練習場が完備されていなかった時代は、雨でグラウンドが使用できなくなると練習場の確保にも頭を悩ませました。
 1967年の大洋(現横浜DeNA)は静岡市の県営草薙球場でキャンプを行いましたが、2月9日から降り出した冷たい雨は3日間降りやまず、4日目の12日には吹雪に変わり3センチの積雪に見舞われました。凍える寒さと悪天候。この間、選手たちはグラウンドで練習ができないどころかユニフォームも着ていません。そこで急遽、チームは草薙キャンプをあきらめ三原脩監督以下、選手40名は関西へ。移動した先は阪神の本拠地甲子園球場でした。直前までキャンプを行っていた阪神の野手陣が安芸市へ移動したこともあり、拝借できたのです。
 2月13日、大洋ナインは5日ぶりの青空を仰ぎ見ました。三原監督は「今日練習できないと5日間ブランクになるところだった。こっちに移動してよかった」と乾いたグラウンドで選手を見ながらニコニコ顔。ところが練習開始1時間後には上空が黒い雲に包まれ、その後大粒の雪が舞い降りて来ました。仕方なくこの日の練習はここで切り上げることに。結局、大洋が甲子園を使用したのはこの日を含め3日間だけで、草薙球場に戻りました。寒波から逃げた先でもまさかの雪に見舞われ、キャンプ地変更の“三原マジック”は不発に終わりました。

女子校の校庭で行われたキャンプ

 1950年代初頭は高校の校庭で一軍公式戦を開催していますから、キャンプが教育施設で行われていても驚きではありません。1951年には中日が愛知県の内海高校で、広島は広島市の皆実高校で、東急(現日本ハム)は都内の学習院大学で基礎トレーニングを行っています。
 中日は1953年にも場所を静岡県田川郡大仁町(現伊豆の国市)の大仁(おおひと)高校に移し、2月1日から10日間キャンプを張りました。伊豆の山々に囲また環境が気に入ったのか、3年後の1956年の第一次キャンプ(2月1日~15日)にも再びこの地を選びます。大仁高校はその前年に男女共学から女子校に変更になっていて、プロ野球史上唯一の「女子校の校庭」でキャンプが行われたのです。
 そのキャンプに大卒ルーキーとして参加したのが法元英明さん(88)です。プロ野球選手としての第一歩を、まさかの女子校の校庭に刻んだだけに記憶は鮮明です。「校舎とグラウンドは道で隔てられていたので、授業の邪魔になることはなかった。女子高生たちが練習を見に来て騒がれた記憶もない。報道陣もほとんどいなかったね」。今ならインパクトのある話題ですが、時代の違いなのか、キャンプは終始淡々と行われたようです。
「後年、大仁高校を卒業した女性から『息子に、お母さんの学校で中日がキャンプをしていたと言っても信じてくれないから、証言してもらえませんか』と言われたことがあった」と法元さん。人口1万3000人弱。ひなびた温泉街の、しかも女子校の校庭でプロ野球チームが2週間キャンプを行っていた…今では疑われても仕方がないような話ですが、まぎれもない球史なのです。大仁高校は2010年に修善寺工業との統合により伊豆総合高校となり、歴史に幕を下ろしました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・法元英明さん
佐藤啓さん
松永一成さん
野球殿堂博物館