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【球跡巡り・第81回】藤井寺に住み続けて半世紀 元近鉄の4番打者が語る 藤井寺球場

 大阪府の南東部に位置する藤井寺市。この街にはかつて、「猛牛軍団」と呼ばれた近鉄バファローズが本拠地にした藤井寺球場がありました。その歴史は古く、竣工は1928年。今年開場100周年を迎えた甲子園球場の完成から4年後でした。収容人員は7万人とされ、内野スタンドは両翼のポール際まで鉄傘に覆われていました。戦前はアマチュア野球で使用され、初のプロ野球開催は戦後の1946年。4月30日に阪神対パシフィック戦が行われ、5月3日には戦後初となる“伝統の一戦”阪神対巨人を行っています。

 1950年、二リーグ分立でパ・リーグに加盟した近鉄はここを専用球場とし、フランチャイズ制度が確立した52年から本拠地にしました。しかし、照明設備がなかったのでナイターは行えず、試合開催は週末や祝日のデーゲームが主でした。57年までは南海の本拠地大阪球場も間借りし、58年からは日生球場が実質的な本拠地でした。ナイター照明が完備されたのは84年。ようやくこの年から主催試合の半数以上を興行し、89年には初の日本シリーズ(対巨人)も開催しました。

 栗橋茂さん(73)は1973年度のドラフト1位で近鉄に入団し、74~89年までプレーしました。パ・リーグを連覇した79、80年にはクリーンアップを打ち、16年間で1301安打、215本塁打を記録し3度の優勝に貢献。現役時代の88年11月にオーナーとして開店した藤井寺駅近くのスナック「しゃむすん」を、今も一人で切り盛りしています。マッチョな体型から「和製ヘラクレス」と呼ばれた元近鉄のスターを訪ね、店のドアを開けました。

 東京出身の栗橋さんが藤井寺に来たのは22歳の時。縁もゆかりもない土地でしたが、以来一度もこの街を離れることなく半世紀が経ちました。「なんで藤井寺にいるのかなあ、っていつも思うよ」と苦笑い。水割りを作りながら50年前の球場の記憶をたどります。「改装前の浴槽は狭くてね。4、5人も入ればいっぱい。みんなが出たらお湯がひざ下ぐらいまで減っていたけど、あの頃の球場なんてどこもそんな感じだったよね」。

 両翼が91メートルと狭く「本塁打量産球場」とも言われましたが、栗橋さんの印象は異なります。「騒音対策の防音壁(1984年に設置)が出来るまでは、ライトからレフトに強い風が吹いていて、ライトにホームランを打つのは大変だった。“行ったー”と思っても外野フライなんてよくあったから。甲子園の浜風より強かったかも。ただし、レフトの打球はよく伸びたよ。コツンと当てても入る感覚だったね」。

 プロ初安打も刻んだ藤井寺球場では歴代9位の229安打を放ち、本塁打は33本。その中に忘れられない1発があります。現役最後の1989年、6月4日の日本ハム戦で佐藤誠一投手から放った本塁打です。佐藤誠はこの年、リリーバーとしてリーグ3位の18セーブの活躍。「フォークボールがいいピッチャーだった。その打席は直球とフォークを半々で待っていて、直球が来た。そんなに強く振っていないけど45度の角度が付いて右中間スタンドへ。上手く打てたよ」と振り返る一打は、リーグ史上54本目の代打満塁本塁打でした。

 この年、近鉄は9年ぶりにリーグ制覇。藤井寺球場に照明設備が整えられたことから、宿願だった日本シリーズの本拠地開催が実現します(1979、80年は大阪球場で開催)。しかし、シーズン中の出場が53試合で、14安打に終わった栗橋さんの胸中は晴れやかではありませんでした。

「シリーズ前に駒澤大で2学年下だった巨人の中畑(清)が、“僕は引退します。先輩はどうされますか”って聞いてきた。まだわからない、って答えたよ」。中途半端な境地で迎えたシリーズの出番は1打席のみ。第6戦、1対3と負けていた9回裏。25打席連続無安打と不振が続いた大石第二朗の代打でした。マウンドには水野雄仁。2―2からの5球目、フォークボールに空振り三振。「あの野郎、フォークばかり投げやがって。根性ねえなあ(笑)」。対照的に中畑は第7戦で代打起用されると、シリーズの行方を決定付ける本塁打。「後輩は両手を広げ、飛行機の格好をしてダイヤモンドを回ってね。俺は空振り三振。なんなの、この違いは」と笑う。結局、栗橋さんはこの年で現役にピリオド。これが最後の打席になりました。

 近鉄はその後、球界再編の当事者となり2004年限りでオリックスと合併。藤井寺球場も2005年1月31日、午後5時をもって閉鎖されました。栗橋さんは最後の姿を目に焼き付け、「二度と来ねえぞ。おさらばじゃ」と言って球場を後にしました。しばらくは近くを通るのも避けていたそうです。この時、53歳。近鉄一筋のプロ野球人生を送り、藤井寺に住み付き30余年。「寂しいという感情ではなかったね。しょうもない、情けない、だね。入団交渉の時には、私鉄で一番大きいとか言ってさ」。チームを、そして藤井寺の街を愛した男の胸中は、察するに余りあります。

 昭和の香りが残る店内には近鉄選手のサインや藤井寺球場の遺品があり、多くの野球ファンが訪れます。「普段はほとんど見せないんだけど」と言って栗橋さんがカウンターの下から持ち上げたのは、球場閉鎖の際に掘り出したホームベースでした。「球場があっての藤井寺だった。近鉄が優勝して、ファンが集い、マスコミで報道され、街もにぎやかだった。よそから人が来ないとダメだね」。無念の思いを抱きつつ、近鉄と藤井寺球場を知る“証言者”として、これからも店に立ち続けます。

 球場跡地はマンションと教育施設になっています。近代的な7階建て校舎が建つ校門の脇には、野球少年の銅像モニュメントがありました。大きなボールの上で野球帽をかぶった少年が両肘を両膝に乗せ、両手で顔を支え遠くを見つめています。その下の台座にホームベース型のプレートがあり「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005」と記されていました。かつて球音がこだました場所に時折、電車の走行音だけが響きます。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・栗橋茂さん
写真提供・野球殿堂博物館