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【球跡巡り・第87回】大名屋敷の藩邸門が球場門になった 徳山市営毛利球場

 山口県周南市は2003年4月に徳山市や新南陽市など2市2町が合併して誕生した街です。市役所がある旧徳山市の中心地は1650年から藩祖毛利就隆(なりたか)によって整備され、廃藩までの220年余りを徳山藩として歴史を刻みました。その藩庁が置かれていた毛利家徳山藩邸(徳山陣屋)の屋敷跡に造られたのが徳山市営毛利球場でした。

 在来線でJR徳山駅に到着。ホームに降りると童謡「一年生になったら」のメロディーが流れて来ました。この曲を作詞した詩人「まど・みちお」はこの地の出身です。在来口の改札を出て北へ15分ほど歩くと周南市文化会館に着きます。野球場はここにありました。

 旧徳山市は太平洋戦争末期の1945年5月と7月の二度、連合国軍の空襲を受けて市街地の90%を焼失します。「戦時中、屋敷は海軍の高級将校の宿舎と、回天特別攻撃隊の搭乗員の出撃前夜の宿泊場所になっていたそうです」と語るのは徳山藩毛利家14代当主の毛利就慶(なりよし)さん(52)です。「それらの情報は連合国軍に伝わっていたようで、屋敷には100発ほどの焼夷弾が落とされました」。徳山藩毛利家の家屋も、風格ある大名屋敷の門を除いてほとんど焼失したそうです。

 焼き尽くされた屋敷跡に球場が完成したのは1948年の春でした。その前年に徳山野球連盟理事会顧問の黒神直久さん、理事長の堀山研作さんと、徳山藩毛利家12代当主の毛利元晴との間で用地借用の話し合いが成立。当時、県内の本格的野球場は宇部と防府の市営球場だけで、アマチュア野球の発展を願っての新球場建設でもありました。

 建造にあたっては、近くの県立徳山高校の野球部員も駆り出されました。その時の様子は「徳山高校野球部百年史・上巻」に詳しく載っています。

「入部して最初の仕事は毛利邸に作られた毛利球場の地ならし作業でした。何しろ藩主のお屋敷跡と庭園だったところなので、平地にしたと言ってもデコボコだらけ。お世辞にも野球のグラウンドとは言えない状態でした。二人がかりで重たいコンクリート製のローラーを、エッチラ、オッチラ。並行して野球の練習も。食糧不足の時代に腹ペコの毎日でした」

 そう回顧したのは同校3期生で1951年卒の田村定彦さんです。さらに「球場の入口には藩邸門がそのまま残されていました。外野後方には旧庭園の一部や植え込みも見えるユニークな球場で、新聞各紙が“名物球場”として一斉に取り上げたほどでした」と綴っています。

 前記のように戦争で家屋のほとんどは焼失しますが、奇跡的に藩邸門だけは焼け残っていました。それを球場門にしたのです。姫路城内、上田市営、山形市営、松山市営、唐津舞鶴など、殿様の屋敷跡に作られた野球場は珍しくありませんが、かつての藩邸門を球場門に転用したのは日本でもここだけでした。

 初めてプロ野球選手が“殿様の門”をくぐったのは二リーグが誕生した1950年。7月26日に松竹対大洋の一戦が行われました。大洋はその前年の暮れに山口県下関市で産声を上げた球団です。地元ファンの大歓声に迎えられ…と言いたいところですが、前日まで1カ月以上も全国を行脚。山口県での試合は6月11日(対広島=下関)以来45日ぶり。しかも県内での開催はこの日でやっと7試合目でした。

 両チームで最も注目を集めたのは松竹のベテラン大岡虎雄内野手でした。さかのぼること19年。プロ野球が結成される前の1931年に行われた日米野球の第14戦、全米選抜対八幡製鐵の試合は山口県下関市にあった長府球場で行われました。その試合に当時19歳だった大岡は四番投手で出場し、ラリー・フレンチ投手から2本塁打。試合は8対17と大敗しましたがバットで存在感を誇示しました。その後、都市対抗野球で通算5本塁打を放ち「八幡の虎」と名をはせたスラッガーが凱旋したのです。

 五番一塁手として出場した大岡は初打席でファンの期待に応えます。2回裏、ヒットで出塁の岩本義行外野手を一塁に置き打席へ。2ボールから大洋片山博投手が投じた3球目をとらえると、打球は土盛りのレフトスタンドを超えて旧庭園の植え込みの中へ消えました。地元の野球愛好家から「殿様の球場」と呼ばれた場所に、記念のプロ野球初アーチを刻んだのは38歳になった八幡の虎でした。

 この試合が始まったのは、日も西に傾いた夕方の17時1分でした。この日、山口市の日の入り時刻は19時19分。球場にナイター設備はなく、日没まで2時間半を切っています。しかも延長12回制でしたが、当時のプロ野球は全く心配はいりません。この年、セ・リーグの平均試合時間は1時間44分。この試合も1時間42分で終わり、日没まで30分以上もありました。今では信じられない興行スケジュールだったことが伝わります。

 山口県の高校野球のメッカとして重宝されましたが、施設の老朽化、毛利家との土地貸借問題もあり1971年限りで閉鎖。日本で唯一、殿様の門を活用した野球場は23年で幕を下ろしました。プロ野球は55年までの6年間に13試合を行っています。解体後の跡地には当時のブームに乗り71年にボウリング場(モウリプラザ)がオープンしましたが、わずか5年で閉鎖。動物園展示館(1975~80年)を経て、82年に現在もある周南市文化会館(旧徳山市文化会館)が建てられました。「殿様の球場」の象徴でもあった由緒ある藩邸門も球場を取り壊す際に撤去され、当時を偲ばせる物は残っていません。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・毛利就慶さん
松永一成さん
周南市美術博物館
参考文献・「徳山高校野球部百年史・上巻」山口県立徳山高等学校野球部OB会
写真提供・山口県高等学校野球連盟
周南市美術博物館