【球跡巡り・第89回】プロ野球史上最も本塁打が出やすかった 西大寺町営球場
日本三大奇祭の一つとして知られる岡山県岡山市の西大寺で行われる「西大寺会陽(えよう)」。毎年2月の厳冬の深夜、数千人のふんどし姿の男たちが宝木(しんぎ)を争奪する勇壮な行事は室町時代から500年以上も続いています。
その西大寺の前にある漁港の対岸に位置する向州公園の一角に、岡山県初の本格的野球場が造られたのは90年以上前の1934年でした。当時、向州には公認陸上競技場や競馬場などがありにぎわっていました。西大寺町の建設課長だった赤木朝治氏が、神戸市民運動場や甲子園、鳴尾、西京極など関西の主要球場を視察し、参考にして建設された野球場は11月に完成。河川敷だったので施設は取り外しが出来ることが条件で、内野スタンドには競馬場の「木造組立式スタンド」が転用されました。





このグラウンドでは日本プロ野球が産声をあげる前に結成された「大日本東京野球倶楽部」の豪華メンバーたちもプレーをしています。1935年2月に日本を出発した同チームはアメリカで「東京ジャイアンツ」と名乗り109試合を戦い、帰国後に「東京巨人軍」と改称。9月6日から11月17日まで全国主要都市を行脚しましたが、その中の1試合が10月13日、西大寺町営球場で行われたのです。
当日は当地の窪八幡宮の祭礼の日と重なり、近隣から野球ファンが詰めかけて大盛況。球場の周囲を緑の幕で張り巡らし、吉井川の光の反射を防ぐとともに、入場料を払わず観戦する“タダ見客”をシャットアウト。第1試合は巨人軍による紅白戦が行われ、メンバー不足もあり地元岡山から6選手が参加しました。続く第2試合は社会人野球チーム「名鉄」との一戦でした。
先発マウンドに上がったのは、翌年始まるプロ野球で3度の無安打無得点試合を達成することになる沢村栄治。後に巨人で11年間指揮を執った水原茂がサードを守り、ショートは地元関西中学出身の津田四郎(のちにセ・リーグ審判員)。セカンド田部武雄、センター二出川延明(のちにパ・リーグ審判部長)と、そうそうたる選手がスタメンに名を連ねました。試合は同点の8回裏、巨人が1点を勝ち越し2対1で勝利。沢村は9回1失点完投と貫禄の投球を見せつけました。
プロ野球公式戦は二リーグ分立直後の1950年に、セ・リーグ公式戦が1試合だけ行われています。この時の球場の広さは両翼91.4メートル、中堅まで106.7メートルとコンパクトな造りでしたが、加えて中洲という立地もあり左中間フェンスまではなんと左翼ポール際より6メートル以上も短い85.3メートルしかありませんでした。4月18日に開催された阪神対中日4回戦は、その左中間の狭さも影響して壮絶な本塁打の応酬になりました。
1回表、中日のトップバッター坪内道典外野手が左翼へ先頭打者本塁打を放ち口火を切ると、阪神もその裏二番の河西俊雄外野手が左翼へライナーで叩き込みます。その後、中日打線が5回までに四番杉山悟外野手の2打席連続本塁打を含む5本塁打を放てば、阪神も三番の後藤次男外野手が2打席連続本塁打を放ち計3本塁打。岡山県内でも初の公式戦となる一戦は、前半戦からノーガードの打ち合いになりました。
中日打線はその後も勢いが止まらず、7回に西沢道夫内野手が満塁本塁打。8回には野口明捕手がこの日2本目の本塁打を放ち、チーム新記録となるゲーム7本塁打(これは1984年6月29日に8本塁打するまでチーム最多記録でした)。阪神も8回に白坂長栄内野手が本塁打を放ち計4本塁打。全て中堅よりレフト側に飛び込んだ両チーム合わせて11本の本塁打は、1か月前に公式戦がスタートしたセ・リーグの最多本塁打記録で、その後1980年10月19日のヤクルト対中日23回戦(静岡)で両チームで12本塁打が飛び交うまで30年間もリーグ記録として刻まれました。
試合は14対6で中日が打ち勝ちました。前述のように西大寺町営球場でのプロ野球公式戦はこの試合だけですから、1試合平均の本塁打は「11」。この数字は沼田町公園球場(群馬県)と厚狭球場(山口県)の8本塁打を上回り最多記録。プロ野球を開催した球場は300近くになりますが、永遠に破られない数字として君臨しそうです。
JR岡山駅から在来線で東へ約20分。西大寺駅で下車し、南へ15分ほど歩くと向州公園に着きました。ここは1962年の岡山国体の際にソフトボール会場となり整備されました。その時に野球場も取り壊されたため町営球場の痕跡を偲ぶことはできません。いまは「向州公園補助野球場」という草野球などが行われるグラウンドがありますが、当時の航空写真をたどるとここが野球場だったようです。
公園内にある西大寺公民館で出会った中井浩さん(72)は幼いころからこの地に住んでいます。「内野にスリ鉢状の芝生スタンドがあった野球場でした。中には簡単に入れなかったので、球場の外の広場で自転車に乗る練習をしましたね」と昔日の記憶をたどりました。「国体の時に出来た球場はフェンスもベニヤ板で簡素なものでした。それに比べたら町営球場は立派でしたよ」。当初は競馬場の組立式スタンドを代用していた客席も、いつの時代にか常設スタンドが設置されたようです。
75年前のうららかな春の1日。“はだか祭り”の奇祭が行われる西大寺の目と鼻の先で繰り広げられた両チームで11本塁打のアーチ合戦。その舞台、西大寺町営球場はプロ野球史上「最も本塁打が出やすい球場」として永遠にその名を残します。
【NPB公式記録員 山本勉】
調査協力・ | 中井浩さん 山中幸蔵さん 西大寺緑化公園 緑の図書室 |
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参考文献・ | 「西大寺球場の巨人軍」青江文次著 |