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【球跡巡り・第2回】工場の敷地内で開催された広島県初のプロ野球 福山三菱電機球場

 1936年に公式戦が始まったプロ野球。その球音が初めて広島県に響いたのは戦後でした。終戦から3年。1948年8月4日、福山市の福山三菱電機球場で南海対急映の試合が「日本野球中国シリーズ」として、地元新聞社の主催で開催されました。

 三菱電機福山工場(現福山製作所)の敷地内に新装された球場に、早朝5時から野球ファンが詰め掛け、午前9時には内外野のスタンドが1万5000人の観衆で埋まりました。地元の社会人野球チームが前座で2試合を行い、プロ野球選手がグラウンドに姿を見せたのは午後2時30分。「両チームの選手が外野から行進をして入って来ました。みんなお尻が大きくて、格好良かったですね」。ライトスタンドで観戦した、当時中学3年生だった沖藤誼(おきとう よしみ)さん(85)の記憶がよみがえります。

 南海には、のちに巨人へ移籍し300勝投手となる別所昭、急映には青バットの大下弘の姿もありました。試合は南海が4対0で勝利。6回裏、南海の3番打者がこの試合唯一の本塁打を放ちます。「笠原(和夫)という左バッターの打球が、座っていた近くに飛んで来ました。プロの打球の速さにはビックリしましたよ」。14歳の野球少年の脳裏に刻まれた一打は、70年経っても色あせません。

 地元球団の広島カープにとっても、忘れられない球場です。球団創設の1950年。1月半ばにチームを結成し、広島総合球場で合宿練習を開始。1カ月近く厳寒の中でトレーニングに励んだ後、福山へ移動。2月17日にチーム結成初となる紅白戦を、三菱電機球場で行ったのです。

 さらに、3月10日にペナントレースが始まると、16日には創設5試合目の中日戦を開催。試合は2対5で敗れましたが、4回裏に白石勝巳が中日・杉下茂からレフトスタンドに飛び込む本塁打。この一打はカープにとって記念の球団第1号ホームランでした。また、この試合に先発したのは19歳のルーキー・長谷川良平投手でした。身長167センチと野球選手としては小柄ながら、黎明期の広島のエースとして活躍。通算197勝を挙げ“小さな大投手”と呼ばれた右腕は、この球場でプロとしての第一歩を踏み出したのです。

 地方で開催されるプロ野球は大半が自治体所有の球場です。しかし、太平洋戦争末期(1945年8月8日)の大空襲で市街地の約8割が焦土と化した福山市には、当時公設の球場がありませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが三菱電機の球場でした。民間企業の工場敷地内で行われたプロ野球は珍しく、高岡鐘紡(富山県)、富洲原(三重県)と、福山三菱電機の3球場しかありません。1950年8月25日には広島対国鉄戦が行われました。前出の沖藤さんは、学校を卒業して奇遇にも三菱電機に就職。その試合を、休憩時間にライトスタンド後方の工場から眺めたそうです。

 市街地も徐々に復興を遂げ、1951年10月には待望の市民球場が完成。1952年以降のプロ野球はそこで行われ、福山三菱電機球場での試合は上記の広島対国鉄戦が最後となりました。ネット裏の椅子席スタンドや、バックスクリーン、木製の外野フェンスは撤去され、かつてそこがプロ野球の舞台となった面影はありません。しかし、70年前の暑い夏の日、確かに一リーグの猛者たちが、広島県に初のプロ野球の球史を刻んでいるのです。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・三菱電機株式会社 福山製作所
参考文献・中国新聞(1948年8月5日発行、紙面)
     「広島東洋カープ球団史」広島東洋カープ
写真提供・三菱電機株式会社 福山製作所