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【球跡巡り・第31回】「都の西北」に刻まれたプロ野球の歴史 戸塚球場

 目にも鮮やかな青葉に囲まれ、二つの胸像が大学キャンパスの一角にたたずんでいます。そのかたわらにある碑は「ここにかつて野球場があった」の書き出しで始まっていました。東京都新宿区西早稲田。1882年に創立され、140年近い歴史を誇る早稲田大学。今は総合学術情報センターとして中央図書館が建つ場所は、昭和が終わりを告げようとしていた1987年の初冬まで野球場だったのです。

 1901年に創部された野球部の専用球場として1902年秋に建設され、その地名から「戸塚球場」と命名されました。当初は観客席もない簡素な造りでしたが、慶應、明治を交えた三大学リーグ戦が始まると、1925年に1万人収容のスタンドが設置され本格的な球場になりました。

 1936年に産声を上げたプロ野球の、関東における球史はここから刻まれました。7球団で結成され、巨人、大東京、東京セネタースの3球団は東京に拠点を構えましたが、どこも自前の球場を持ち合わせません。学生野球のメッカ・神宮球場は借りられず、後楽園球場は着工に至っていません。そこで、元早大野球部監督で連盟理事長を務める市岡忠男が、早稲田大学総長の田中穂積に球場借用を懇願。この時、早大野球部が第6回米国遠征中で不在の幸運にも恵まれ「連盟結成記念 全日本野球選手権試合」の戸塚開催が実現したのです。

 最高気温24.4℃。仲夏を迎えた7月1日、都の西北に関東初見参の7球団が勢揃いしました。中でも春先に米国遠征に出かけ、4月から甲子園、鳴海、宝塚で開催されたリーグ戦に不参加の巨人は初の公式戦でした。1日に行われた名古屋(現中日)戦はエース沢村栄治が3回途中5失点とKOされ、8対9と惜敗。3日の敗者復活戦で大東京相手に、打線が13安打の猛攻で10対1と快勝。投げては畑福俊英が6回1失点、7回以降はスタルヒンが抑え、記念の初勝利を挙げました。以来、2019年までに積み重ねた勝利は5999。プロ野球史上初の通算6000勝に王手をかける巨人の歴史は、戸塚球場から始まっているのです。

 東京で初のプロ野球興行は盛況でした。7日までの1週間に9試合を行い、有料入場者は3万6934人。5日の準決勝は定員を上回る1万1015人の入場者で埋まり、入り切れない観客が数千人いたようです。ダフ屋が出て、入場券は数倍の値段で取り引きされ、近所の住民は「いまどき早慶戦があるんですか」と、時代の華で人気絶頂の東京六大学野球と混同したそうです。草創期のプロ野球の特徴であった「試合テンポの速さ」も受け入れられたのでしょう。「ツーアウトでフライが上がったら、捕球する選手以外は全員ベンチに引き揚げた」「試合が始まって下を向いた観客が顔を上げたら、もうツーアウトだった」などエピソードが残されています。名古屋対東京セネタースの決勝戦の試合時間は1時間25分。スローテンポな大学野球を見慣れたファンに、衝撃を与えました。

 JOAK(現NHKラジオ)によるプロ野球初の実況中継も行われました。それまでの放送は東京六大学野球、中等学校の甲子園大会、社会人の都市対抗野球に限られていましたが、連盟が放送局に頼み込んで実現。球場内に集音マイクを設置し、バッターの打球音や観客の歓声がラジオから流れる初の試みも行われ、全試合が生中継されました。

 大会後の8月に上井草、10月には洲崎とプロ野球専用球場が完成したこともあり、戸塚球場での開催はこの9試合だけでした。当時の野球界は東京六大学野球が頂点に君臨し、誕生直後のプロ野球は“職業野球”と蔑まれ、いつつぶれるか分からないと世間から白眼視される立場でした。現に5月に予定していた関東地方での8試合は、球場問題もあり中止になっています。そんな背景の中で学生野球の雄・早稲田大学の球場を借りられたことは奇跡であり、興行の成功も含めプロ野球存続の分水嶺だったと言えるでしょう。

 球場は戦後の1949年、初代野球部長を務め球場建設に尽力し、冒頭の胸像にもなっている安部磯雄の功績を称えるため「安部球場」と改称されました。そして、1987年11月22日に「さようなら安部球場 全早慶戦」を最後に閉鎖され、その使命を終えました。跡地に建てられた中央図書館を、安部と共に胸像になった元野球部監督・飛田忠順が並んで見つめています。そばに早慶戦百周年記念碑も建立され、まぎれもなくここは学生野球の聖地ですが、プロ野球界も決して恩義を忘れてはならない場所なのです。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「鈴木龍二回顧録」鈴木龍二 ベースボール・マガジン社
「洲崎球場のポール際」森田創 講談社
写真提供・野球殿堂博物館