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【球跡巡り・第32回】ボールボーイの胸に刻まれた70年前のプロ野球 小見川町営球場

 千葉県の北東部に位置する香取市。JR小見川駅を中心に広がる旧小見川町は、東西に黒部川と利根川が流れ水郷の風情が漂います。ここに完成した町営球場の開場記念試合に巨人、阪神、国鉄、広島のセ・リーグ4球団が集結したのは今から70年前。1950年10月17日でした。

 終戦から5年。徐々に復興が進んでいたとはいえ、北総の小さな街にあった娯楽施設は映画館だけ。その地に野球場が完成し、プロ野球が開催されるとなればお祭り騒ぎでした。近隣市町村はもちろん、利根川を渡った先の茨城県からもファンが詰め掛け、スタンドは当時の町の人口8,820人の倍以上となる18,000人の観衆で埋まりました。

 試合は阪神対広島、巨人対国鉄の変則ダブルヘッダー。当日のボールボーイを務めたのは、町内の中学校に通う野球部の3年生6人でした。そのうちの一人、三宅康夫さん(84)は当時のことを鮮明に記憶しています。「阪神だけは前夜から小見川の旅館に泊まっていました。6人でそこへ選手を見に行ってね。その帰り道、翌日の担当を決めようと友達とじゃんけんをしたら負けちゃった」。三宅さんは大の巨人ファンでしたが、皮肉にも受け持ったのは阪神と国鉄だったと懐かしみます。

 第1試合、一塁側に陣取った阪神のベンチ横に座りました。「物干し竿の藤村(富美男)さんがレフトへ2本、檪(信平)さんがライトへ1本ホームランを打ちましたよ」。たどった記憶が見事に当日のスコアカードと一致するから驚かされます。試合は阪神打線が13安打、10得点と猛打を見せ、10対4で広島を破りました。

 続く第2試合は三塁側に回って国鉄の担当でした。ベンチに入ってくる選手を見ていると、一人だけあどけない顔をした長身で細身の若者がいました。「国鉄さんは、お抱えのボールボーイを連れて来たのかと思いましたよ」。しかし、そのユニフォームの背中には「34」の背番号がありました。後に日本球史に燦然と輝く400勝を記録することになる、金田正一投手でした。

 三宅さんが、後の大投手をボールボーイと勘違いしたのも無理はありません。この時、金田は17歳で、高校を中退してプロの世界に飛び込んでわずか2カ月。身長183センチながら、体重はやっと70キロ台とガリガリの体型。8月のデビュー戦から4連敗を喫し、10月1日の大洋戦でプロ初勝利を挙げたばかりでした。

 試合は国鉄が高橋輝、巨人は大友工の先発でした。国鉄の高橋は立ち上がりから制球を乱し、2回途中で早々と降板。リリーフしたのは金田でした。しかし、三宅さんは「巨人の大友さんがサイドスローで投げていたのは覚えているけど、金田さんのマウンドでの印象は…」と、“ボールボーイ”の第一印象が強烈過ぎたのか、肝心のマウンド姿は脳裏に焼き付いていませんでした。金田はリリーフした2回裏の満塁のピンチをしのぐと、最終回まで無失点に抑える好投。国鉄が3対2で競り勝ち、金田は巨人相手に初の勝利投手に。今も最多記録として残る「巨人戦65勝」は、小見川町営球場の1勝から始まっているのです。

 三宅さんの案内でゆかりの場所を巡りました。巨人や国鉄選手の更衣所となった旅館は廃業していましたが、阪神が宿泊した丸山旅館は今も営業を続けていました。小見川駅から北東へ1.5kmにある球場跡地は、一面に緑の田んぼが広がっていました。「昭和38年頃には取り壊したのかなあ。その後は、(茨城県の)住金鹿島がこの一帯を団地として開発してね」。地域住民の社交の場としてもにぎわった球場は、わずか10数年で姿を消したそうです。

 プロ野球開催に沸いた日から70年。今ではその事実を知る人も少なくなったそうですが、三宅さんは15歳の秋に体験した「夢のような1日」を胸に刻み、小見川で暮らしています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・三宅康夫さん
宇井正志さん
丸山旅館
写真提供・篠塚榮三さん