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【球跡巡り・第37回】長嶋茂雄も来た! 炭鉱の街の野球場 上砂川球場

 北海道札幌市から北東へ約60km。人口2,800人余りの空知郡上砂川町は、かつて炭鉱の街として賑わいました。1910年代から石炭の採掘事業を開始した三井砂川鉱業所が、従業員により結成された野球チームの拠点として球場を造ったのは1938年。当時、道内の本格的な野球場は札幌円山や旭川市営球場ぐらいでしたから、“黒いダイヤモンド”とも称された石炭により街が活況で、早くからこの地に野球が根付いていたことが伺えます。

 プロ野球の興行を誘致したのも、その会社内に組織された三井砂川野球後援会でした。二リーグ分立直後の1950年7月21日、毎日対大映、南海対西鉄の変則ダブルヘッダーを開催。平日の金曜日だったので、会社はその日を公休に変更する粋な計らいを見せました。

 当日の盛り上がりを同社が月2回発行していた「砂川春秋」新聞が伝えます。〈初のプロ野球の好技を見んものと午前六時の開場前、三千名に余るファンが押しかけるという騒ぎで、午後一時からの試合に午前八時半ごろに内野席は満員、外野席も八分通り埋められた。〉遠路稚内市から来たファンもいて、最終的に8,000人の観衆が詰めかけました。お目当ては少年時代を旭川市で過ごした郷土のスター、スタルヒン(大映)投手でした。しかし、スタルヒンは前日旭川の試合で完投しており登板の機会はありません。そこで藤本定義監督は、打撃も良かったスタルヒンを代打で起用します。対毎日戦の9回表、7対9と2点ビハインドの場面で登場。荒巻淳投手に三球三振を喫しましたが、この日一番の歓声を浴びました。

 3年後、そのスタルヒンがこの地で躍動します。1953年7月14日の東急戦に先発すると、バットでは6回表にレフト場外へ消える2点本塁打を放つなど2安打、4打点。投げては相手打線を散発の4安打に抑え完封勝利を挙げました。NPB歴代6位の通算303勝を記録したスタルヒンですが、故郷北海道内での戦績は2勝6敗、防御率3.38となぜか振るいませんでした。したがって、キャリア晩年の37歳で挙げたこの上砂川での白星は、北海道でマークした唯一の完封勝利でもありました。

 プロ野球開催は上記3試合でしたが、町には「長嶋が来てプレイをした」という話が伝わります。長嶋…言わずと知れた“ミスタープロ野球”長嶋茂雄(巨人)です。「私も見たわけではありませんが、諸先輩から“大学時代に長嶋さんが交流試合か何かで来て、あの球場でプレイをした”と聞いています」。教えてくださったのは上砂川町の奥山光一町長です。

 1950年代、石炭の消費拡大で資金が潤沢だった炭鉱会社は、所有する野球部の強化と新人選手勧誘のため、大学の野球部を地元に招待し対戦しています。砂川町(1958年から砂川市)には都市対抗野球の全国大会に7度出場の東洋高圧があり、上砂川町の三井砂川も、1952年の社会人野球結成記念大会の道内大会を制した強豪でした。“立教三羽烏”と言われた若き長嶋が、杉浦忠(のちに南海)が、本屋敷錦吾(のちに阪急、阪神)が、空知の地で白球を追ったのでしょう。

 山の木々が色づき始めた秋、JR函館本線の砂川駅前からバスで向かいました。野球場跡地の最寄りのバス停は、なんと今も「上砂川球場前」。球場の廃止からまだ7年と日が浅く、外野フェンスやファウルポールも往時のまま残されています。ただ、ネット裏や内野にあったスタンドは撤去され、ダイヤモンドだった場所には認定こども園が建てられ、児童たちの元気で無邪気な声が響いていました。

 石炭採掘による1960年代までの隆盛と、その後のエネルギー革命(石油の大量輸入)による急激な衰退。人口は最盛期の11分の1にまで減少し、少年野球団や各事業所の野球チームも消滅。施設の老朽化も進みました。スタルヒンや長嶋茂雄らがプレイした、いにしえの野球場も時の流れには逆らえず、静かに75年の歴史に幕を下しました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・空知郡上砂川町
参考文献・砂川春秋新聞 1950年8月1日発行、第523号