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【球跡巡り・第39回】プラタナスの木に囲まれた美しい野球場 美吉野野球場

 桜で有名な吉野山がある奈良県吉野町は、大阪市内の近鉄阿部野橋駅から特急電車で1時間15分ほどを要します。人口は約6700人。中央部を東西に吉野川が流れるのどかな町に、1世紀近く時をさかのぼった大正末期に野球場のほか、陸上競技場、庭球場、相撲場、シャワー室に選手控室など、国内屈指の施設を備えた「美吉野運動競技場」がありました。

 吉野鉄道(現近鉄吉野線)が現在の吉野駅まで路線延長工事を行っていた1926年、上市町(現吉野町)の吉野川流域の中州にあった雑木林約2万坪(東京ドームの約1.5倍)を開拓。桜の季節以外でも乗客を呼べる沿線施設として建設しました。中でも、陸上競技場は日本陸上競技連盟の公認を受けた立派な施設で、“暁の超特急”と言われた吉岡隆徳がトラックを走り、アムステルダム五輪で日本人初の金メダリストになった織田幹雄が三段跳びを披露しました。他にも谷三三五、南部忠平、中西みち、人見絹枝など、多くのオリンピアンが足跡を残しています。

 野球場は周囲にプラタナスの木が植えられ、美しい景観でした。収容人数1000人とコンパクトな造りでしたが、当時は全国を見渡しても施設自体が希少で、甲子園球場も2年前(1924年)に完成したばかりでした。開場した1926年から1928年にかけては、全国から小学生が集まり日本学童野球大会が開催され、隣県の和歌山県とは中等学校の選抜野球大会も行われました。

 プロ野球開催は二リーグ制になった1950年でした。吉野町は桜のほかに、最高級の材質を誇る吉野杉・桧の産地としても名高い地です。したがって陸上競技場などは1939年ごろから貯木場として使用されましたが、野球場だけは世間の野球熱の高まりもあり残っていたのです。地域の林業をリードしていた吉野木材協同組合連合会が、新生連合会設立を記念して約80万円を投じて野球場の大改修を行いました。その球場開きとして、連合会が阪急対東急、近鉄対南海の変則ダブルヘッダーを主催したのです。

 吉野の山に新緑が映える5月19日。平日の金曜日でしたが、スタンドは満員の観衆で埋まりました。当時小学校の低学年だった芳澤英一さん(77)は、外野席で観戦しました。「たくさんお客さんがいて、人込みの中をウロウロしながらはしゃいでいました。でもね、小学校に上がったばかりだから試合のことは全く記憶に残っていません」と苦笑い。スコアカードを見ると、第1試合の阪急対東急戦は5対5の同点で延長戦に。10回表、大下弘(東急)が決勝の2ランアーチをレフトスタンドに叩き込んでいます。残念ながら芳澤さんの脳裏には焼き付きませんでしたが、“青バットの大下”として戦後のプロ野球を盛り上げた男の一打は、大和路の野球ファンを魅了したことでしょう。

 2年後の1952年8月には近鉄対南海のダブルヘッダーが行われました。しかし、プロ野球の球音が響いたのはこれが最後でした。球場への唯一の交通機関は近鉄電車で、近鉄にとって運賃収入のうま味はありましたが、吉野は常時興行にはちょっと遠すぎたのでしょう。その後は近畿二府四県の硬式野球大会が行われたほか、地域住民にも広く開放して福利厚生に利用されました。

 1959年9月に近畿・東海地方を襲った伊勢湾台風により吉野川は大きな被害を受けます。野球場は水没した程度でしたが、その後の河川改修工事で川幅が広げられることになり、1960年代後半に取り壊されました。野球場の跡地には吉野小学校が建てられ、陸上競技場だった場所は今も連合会の原木市場として利用されています。

 最寄り駅の吉野神宮で下車すると、なんとも言えない木の香りが漂って来ました。街には今も40軒近くの木材関係施設が集まっているそうです。伊勢湾台風を機に整備された球場跡地近くの道路には、大きく成長したプラタナスの木があり、その傍らに「美吉野グラウンド跡とプラタナス」と題した解説板がありました。前出の芳澤さんが中心となり、「吉野川左岸の景観を守る会」が2019年の秋に設置したそうです。

 「野球場がなくなってからでも50年以上経ちましたから、当時を知る人も少なくなりました。多くの五輪メダリストたちが、この地でも活躍したことを記したかったのです」

 今でこそスポーツ複合施設は珍しくありませんが、100年近く前の大正から昭和にかけて、緑濃き吉野の里に最先端のスタジアムがあったこと自体が驚きです。その史実を語り継ぐためにも、当時から残るプラタナスの木を永遠に守ってほしいと思います。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・芳澤英一さん
吉野町役場
吉野町教育委員会
参考文献・「年輪」吉野木材協同組合連合会設立50年記念誌
「南都銀行五十年史」株式会社南都銀行
写真提供・成瀬匡章さん(奈良県立図書情報館 奈良今昔写真WEB蔵)
NKTK(奈良県立図書情報館 奈良今昔写真WEB蔵)