【記録員コラム】29都道府県、52球場を駆け巡った西日本パイレーツ
セ・リーグ創設の1950年に九州・福岡市に誕生した西日本パイレーツ。翌年には西鉄と合併しわずか1年しか存在しなかった球団には、プロ野球最長となる74泊75日の長期遠征記録が残されています。今回はその背景を掘り下げます。(前回のコラムはこちら)
1950年1月15日付けの西日本新聞には「平和台及び八幡桃園で60試合を予定」とあり、セ・リーグも2月19日に福岡での予定試合数を「50」と発表しました。西日本は専用球場を持たずに新規参入しましたが、前年暮れのリーグ結成時に「球場を持たない球団に対しては、その球団及びファンに便利な日程を作る」との取り決めをしており、それに沿った編成が行われる予定でした。
しかし、実際に福岡県内で行われたのは136試合中、平和台4、八幡桃園2、飯塚市営1のわずか7試合でした。しかも、その試合は3月10日の開幕戦から6月4日の間に行われ、以降チームは一度も福岡でユニフォーム姿を披露することなく、シーズンを終えたのです。(10月11日、平和台で中日戦が予定されていましたが雨天中止)
74泊75日の長期遠征はその間の出来事でした。7月28日に翌日からの松竹戦(広島総合)に備え真夏の広島市入りしたナインが、前述の雨天中止となる中日戦(平和台)のために帰福したのは街に秋の気配が漂い始めた10月10日。この間、北は青森県から南は大分県まで22球場を訪れ37試合を消化しました。75日間で37試合と聞けば、昨今の日程の方が過密ですが、過酷さでは比較にならないでしょう。新幹線はもちろん、寝台列車もありません。ユニフォームやバット、グローブといった野球用具を自ら運び、向かい合う硬い直角椅子の列車で次の球場への移動を強いられたのです。
しかも直前の7月24日までは、6月12日から43日間。直後の10月12日から最終戦の11月18日までは、37日間の遠征も行っていました。福岡に自宅を構えた選手が、6月以降の約5カ月間で帰宅できたのはわずか4日と、過酷を極める日程でした。
この間には球史に残るゲームを行っています。6月28日、青森市営球場での巨人戦では藤本英雄投手に完全試合を喫しました。6月12日に福岡を旅立ち2週間。東京から岩手、函館、小樽、札幌と回り疲労が見え始めた矢先の、プロ野球史上初の屈辱でした。9月5日の巨人戦(後楽園)では4つの内野ポジション全てで失策を記録し、ゲーム8失策。75日間の長期ロードのほぼ半ばで記したミスは、今もセ・リーグワースト記録として残ります。
記念すべきセ・リーグの開幕シリーズを主催。開幕直前には「パイレーツ結成披露会」と題し、繁華街・天神を自動車でパレードもしました。そのチームがなぜ、メイン球場に予定していた平和台で4試合しか行わなかったのでしょう。理由の一つは使用料にありました。市営球場ながら、条例でプロ野球が使用の際は基本料金の他に入場料総額の10%が加算され、他の公営球場と比較して高額だったのです。同じく福岡を拠点とした西鉄もこの年、平和台では6試合でした。
もう一つは当時の交通事情です。関門トンネルが開通していたとはいえ、東京⇔博多間は直通列車でも一昼夜を要しました。その移動時間を考えると、ビジターチームが頻繁に福岡を訪れては連盟の日程編成もままなりません。一リーグ時代はほぼ関東から関西の間での開催でしたから、これは想定外だったのかも知れません。120試合を行った西鉄も福岡県では27試合と、4分の1に届いていません。終戦から5年。九州はまだ遠い地だったのです。
このような事情から、西日本が興行のほとんどを連盟側にゆだねた結果、前述のような長期遠征が繰り返される日程になったのです。136試合の戦跡をたどると、公式戦開催の8カ月間で29都道府県を駆け巡り、延べ52球場を訪れていました。これはもちろん、1シーズンの記録としては最多で、永遠に破られることはないでしょう。ちなみに2005年からプロ野球に参入した楽天が、この16年間に試合を行った都道府県は26で、41球場。色あせたスコアカードをめくりながら、1シーズンしか存在しなかった西日本の全国行脚に、思いを馳せます。
西日本が拠点とした福岡県から関門海峡を渡った先の山口県下関市には、同じくセ・リーグに加盟した大洋(現横浜DeNA)がありました。本州の西の端に位置したこのチームも、1950年に28都道府県、43球場で試合を行いました。140試合のうち、下関球場ではわずか9試合。西日本と大差ない70日間の長期遠征記録も残ります。
その大洋に在籍し、チーム結成初戦(対国鉄=下関)のマウンドに上がり、完封勝利を収めたのは今西錬太郎投手。次回はNPB通算88勝を挙げた今西さんに伺った、スコアカードの裏に隠された遠征の苦労話をお伝えします。
【NPB公式記録員 山本勉】