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【球跡巡り・第40回】かるたの聖地・近江神宮に野球場があった 滋賀球場

 琵琶湖がある滋賀県大津市に鎮座する近江神宮神社。小倉百人一首で天智天皇の歌が巻頭を飾ることから、かるたの聖地とも呼ばれ、映画「ちはやふる」の舞台にもなりました。その内苑東側の森に囲まれた地に、自動車教習所の教習コースが広がりますが、かつてここには滋賀県で初めてプロ野球を行った野球場がありました。

 終戦から2年後の1947年9月。内苑の空地に総工費60万円をかけて、1万人収容の観客席を備えた野球場を建設。当時、県内には彦根球場(1939年完成)しか存在せず、「西ノ宮や後楽園球場におとらないすばらしい野球場が出現する」と県民待望の新球場誕生を滋賀新聞は伝えます。当初は近江球場と名付けられ、9月29日に公式戦期間中にもかかわらず、阪急対南海のオープン戦を開催。県内でのプロ野球はこれが初めてでした。

 自然の地形を生かしたため、球場のスタンドの一部は森の土手を活用し、グラウンドも正確な扇形ではありませんでした。そこで県営となった1949年にグラウンドの一部を拡張し、名称も滋賀球場に変更。プロ野球の公式球場に認定され、1949年11月8日に球場開きとして大陽対阪神の公式戦を開催。湖国の野球ファンを喜ばせました。

 一リーグ制最後となったこの年の本塁打王争いは、ともに阪神の藤村富美男別当薫が最後まで激しいつば競り合いを展開しました。シーズン112試合目を終えた9月23日の時点で、互いに36本塁打を放ち並走。残り10試合で迎えた滋賀のゲーム前でも別当39本、藤村41本とタイトルの行方はわかりません。その戦いにほぼ決着を付けたのが、この試合での藤村でした。

 初回、1死二塁の場面で大陽の先発江田貢一から左中間スタンドへ42号本塁打を放つと、9回には二番手の宮沢基一郎からこれも左中間スタンドへ、この日2本目となる43号本塁打。別当との差を一気に4本としました。藤村はその後も3試合連続本塁打を放ち、シーズン46本塁打。終盤11試合をノーアーチに終わった別当に7本差をつけ、当時の最多本塁打記録を更新し、一リーグ最後のキングとなりました。

 プロ野球の公式戦開催はこの1試合だけで、主に都市対抗野球の滋賀県予選や高校野球の京津大会などで使用されました。それも1954年夏ごろまでで、試合会場としては8年ほどの短命に終わり、その後は地元の高校の練習場として使われました。1956年のセンバツ高校野球大会に大津東高校(現膳所高校)野球部のエースとして出場し、その後阪神の外野手で活躍した石田博三さんは「僕らのころはすでに荒れ放題。脱衣所もなくて、着替えは近江神宮の材木置き場でした。でも、あそこでの練習は懐かしい思い出です」と、2004年5月18日付け読売新聞〈しが県民情報〉で球場を回想しています。

 1960年に滋賀球場から南へ2kmほどの御陵町に皇子山球場が完成。ほぼ同時期に滋賀球場は取り壊され、1961年3月に現在の大津自動車教習所に姿を変えました。その自動車教習所を上空写真で見ると、教習コースが森と県道に囲まれた扇形をしており、野球場だった土地をそのまま活用していることがわかります。プロ野球を開催し、その後廃止になった野球場は全国で100を超えますが、跡地を自動車教習所にしたのは愛知県の鳴海球場と滋賀球場の2か所だけと希少です。

 バックネット裏だったと思われる場所には、生い茂った木々の中に8段ほどのコンクリートで作られたスタンドが往時のまま残されていました。今から70年前、初めて見るスター選手のプレイに多くの野球ファンが胸を高鳴らせたことでしょう。その場所に座ると、藤村の2発の快音が聞こえたような気がしました。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・滋賀新聞(1947年7月3日付け)
読売新聞「しが県民情報」(2004年5月18日付け)
写真提供・近江神宮社務所