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【球跡巡り・第41回】本塁から左翼まで121メートルもあった 各務原運動場

 名古屋駅から名鉄電車でおよそ1時間。岐阜県各務原市はかつて中山道の宿場町(鵜沼宿)として栄え、今は岐阜市や名古屋市のベットタウンとなっています。ここには岐阜県の野球史に貴重な記録を刻んだ各務原運動場がありました。

 時をさかのぼること90年。中等学校の野球に流行の兆しが見え始めた1931年。地元の各務原鉄道(1935年に名鉄と合併)が、各務原陸軍飛行場の西側に広がる畑地を那加村(現各務原市)から無償で貸与され、費用一切を会社が負担するとういう条件で建設を開始。1932年秋に完成した「運動場」は、一周400メートルのトラックを有する陸上競技場を兼ねた長方形で、内野のダイヤモンドはそのトラックの中にありました。したがって、本塁から右翼の仕切り塀までは82.3メートルでしたが、本塁から左翼までは、なんと121メートルもありました。

 名鉄は学生野球の開催に好意的で、球場を無償で提供したほか、審判員、ボールボーイ、グラウンド整備員の斡旋まで引き受け、「選手が来れば、すぐに試合ができる」までのお膳立てを行いました。結果、高校野球夏の県大会予選では1933年から1957年まで、数回を除いてメイン球場として使用されました。巨人のV9に貢献した森昌彦選手が、岐阜高校3年の1954年夏に県大会を制し、三重県代表との「三岐大会」に勝って甲子園出場を決めたのはここでした。

 岐阜県のプロ野球史も各務原運動場に始まります。戦時中は食糧増産のため麦畑に転用され荒れていましたが、1946年夏に整地が完了。2年後の1948年6月25日に1万2000人の観衆を集めて行われた中日対阪急戦が、記念の一戦でした。当時中学3年生で市内在住の富樫政孝さん(87)は、7月16日に観戦した中日対金星戦を克明に記憶しています。

 「陸上競技場を兼ねていましたから、グラウンドは長方形でレフトが広かったです。外野にフェンスはなく、木の杭が打ってあり、そこにロープが張ってありました。外には出店もあり、大にぎわいでしたね」と“球場”の様子を描写。区域の野球チームの「球拾いを手伝っていた」野球大好き少年にとって、初めて見るプロ野球選手は「一人ひとりが神様に見えた」そうで、今もその時の興奮が蘇ります。

 「(金星の)スタルヒン投手の球はそんなに速くなかったけど、背が高くて大きかったですね。忘れられないのは中日の山本尚敏選手。代走で出てきて、颯爽と盗塁を決めた姿は格好よかったです。」スコアカードを見ると、6対6の同点で迎えた8回裏、中日の攻撃。ヒットで出塁した杉江文二選手の代走で起用された山本は、衛藤大輔選手の5球目に二盗。内野ゴロで三進した後、原田徳光選手のスクイズでホームベースを踏みました。結局、これが決勝点となり中日が8対7で勝利。この年、ここぞという場面で代走に起用されチーム2位タイの26盗塁。失敗はわずかに2で「代走のスペシャリスト」と言われた山本の姿は、富樫さんの脳裏にしっかりと焼き付いています。

 この試合ではいずれも左翼方向に4本塁打が記録されていますが、その飛距離は93~104メートル。前述の通りレフトの塀までは121メートルありましたが、当日はそれよりもかなり前方に富樫さんが証言されたロープが張られていたのでしょう。二リーグ分立後の1952年ごろまでは、学校の校庭や陸上競技兼用のグラウンドなど、野球場以外でも試合を行っています。記録が残る施設では、各務原運動場の左翼まで121メートルは最長です。もし、ロープが張られていなかったら“左翼まで最長距離”で行われたプロ野球だっただけに、ちょっと残念です。

 運動場の閉鎖は1959年ごろでした。1951年12月に行われた2度目の契約更新の際、那加町(現各務原市)は施設が脆弱だったので「町民に福利をもたらすよう充実してほしい」と申し入れたところ、名鉄側も運動場改修に50万円をかけ町側の意向に沿うよう努力する約束をしました。しかし、その後に改修が行われなかったこともあり1956年1月で契約終了。施設と土地が返還されました。町営となった運動場は、間もなくして住宅地への転用が決定。岐阜県の野球史を黎明期から四半世紀に渡り刻んで、幕を閉じました。

 130戸分に区分けし、分譲された土地には住宅が立ち並んでいます。運動場の閉鎖から60余年が経ち、周辺に住む人でもプロ野球開催を知る人はわずかになりました。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・富樫政孝さん
各務原市歴史民俗資料館
野球殿堂博物館
参考文献・那加町史
「白球燦々-岐阜県中等学校・高等学校野球史-」岐阜県高等学校野球連盟
写真提供・各務原市歴史民俗資料館