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【球跡巡り・第42回】二人の野球少年を魅了した17本のアーチ 飯田城下球場

 東に南アルプス、西に中央アルプスがそびえ、南北を天竜川が貫く長野県飯田市。中心部にある飯田城址の一角、今はグラウンドの半分に県営住宅が建つ場所に、1933年開場の飯田城下球場がありました。

 プロ野球は二リーグに分立した1950年にセ・リーグの試合を開催しています。巨人、阪神、広島、西日本の4チームが、「信州シリーズ」と銘打ち9月19日から長野市、松本市、飯田市を転戦。飯田城下球場では21日に阪神対広島、巨人対西日本の2試合を行いました。人気チームの巨人、阪神が初めて伊那谷に来るとあり、当日は静岡県からもファンが来場し、試合開始の3時間前に内野席が、試合開始の午後1時には外野席も満員。翌日の読売新聞は、観衆2万人と盛況ぶりを伝えています。

 当時小学4年生だった佐野竜一さん(82)は、当日まで待ち切れず、前日の選手たちの飯田入りを“待ち伏せ”したほどでした。「飯田駅の一つ手前の桜町駅のホームで待っていたら、2両編成の列車で巨人選手がやって来ました。同じ車両に乗り込んでサインを頼んだら、 青田選手がしてくれましたね。」桜町駅から飯田駅までの乗車時間わずか2分の思い出は、70年経っても色あせません。

 翌日のゲームも鮮明に記憶しています。「野球場といっても、スタンドのないただのグラウンド。外野にフェンスもなく、高さ1メートルほどのベニヤ板で囲っていましたが、膨らみが少なく狭かったですね。別所さん、藤村さん、川上さん、それに青田さんも。有名選手がたくさんホームランを打ちました。」スコアカードを見ると、阪神対広島戦では阪神がイニング3本塁打を放つなど両チームで計7本。巨人対西日本戦では、巨人青田昇がゲーム3本塁打を放ち、両チームで計10本。この日の天候は晴れ。信州の乾いた秋風にも乗り、2試合で17本ものアーチが乱舞しました。

 中学2年生だった桜井常治さん(86)は、ベンチの代わりに敷かれたゴザの上に座る選手のすぐ後ろで観戦していました。「テレビ放映もない時代でしたから、目の前にプロ野球選手がいるなんて夢のような時間でした。ホームランの多い試合でしたが、巨人の別所さんはフォームが綺麗で、いいボールを投げていましたね。」狭いグラウンドにほとんどの投手が苦心した中、4イニングを2失点にまとめた別所毅彦の美しい投球フォームが、今も瞼に焼き付いています。

 華々しく本塁打が飛び交ったプロ野球観戦をきっかけに、二人の少年は野球にのめり込みます。桜井さんは中学校卒業後、飯田長姫高校に進学し野球部に入部。身長157センチで「小さな大投手」と言われ、甲子園を沸かせた光沢毅さんとは同級生。高校3年の春のセンバツ甲子園大会で、全国制覇を達成しました。佐野さんは大学まで野球を続け、その後は指導者の道を歩みます。1965年、第37回春のセンバツ大会に塚原天竜高校の監督として甲子園出場を果たしました。

 「昭和22年に大火があって、しばらくは野球をやるどころではなかった」と桜井さんが振り返るように、市街地の7割を焼き尽くした1947年4月20日の「飯田大火」は、終戦からの復興を目指していた市民生活にも多大な影響を及ぼしました。戦争と火事。打ちひしがれた市民の心を癒し、勇気を与えたのは、この時のプロ野球だったのかもしれません。そして、桜井さんや佐野さんのように多くの少年が野球に夢中となり、4年後の飯田長姫高校の全国制覇につながったのでしょう。

 二人の案内で跡地を訪ねました。入口付近に錆びた立て看板があり、「飯田長姫高等学校」の文字が記されていました。校舎が城址の一角にあったことから、球場は長姫高校が管理し、長く野球部の専用練習場として使われたそうです。その後、校舎の移転に伴いグラウンドの一角に二棟の県営住宅が建てられました。半分ほど残るグラウンドでは、今も軟式野球が行われるそうです。1日で17本ものアーチが刻まれた舞台。「飯田城下球場」の名は消えても、白球は飛び交い続けてほしいと思います。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・桜井常治さん
佐野竜一さん
今井徹さん