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【球跡巡り・第43回】ボールボーイの高校球児は後に596盗塁の韋駄天 大竹警察学校

 JR広島駅から普通電車で西へ約40分。広島県の西の玄関口に位置する大竹市は、前に穏やかな瀬戸内海が広がり、後ろには美しい山々が連なる風光明媚な街です。ここには戦時中、海軍を志願した新兵を訓練する大竹海兵団がありました。戦後その地は広島管区警察学校(大竹警察学校)となり、敷地内のグラウンドで1953年4月16日に広島対巨人のセ・リーグ公式戦が1試合だけ行われています。

 広島カープは当時、広島総合グラウンド(広島市西区)を本拠地にしていましたが、そこでの開催は基本的に日曜日のみ。平日は呉二河、福山、十日市、西条御建、尾道西高校など県内各地を行脚。この年は主催全65試合のうち22試合を開催して、ファン獲得と同時に名物の酒樽を設置し“タル募金”で資金集めを行ったのです。

 広島管区警察学校のグラウンドにも「酒樽が置かれていた」と証言するのは当時大竹小学校6年生で、この試合を課外授業の一環として観戦した山戸一成さん(79)です。「私の記憶にはないのですが、一緒に見ていた女の子が“酒樽があった”と教えてくれました。内、外野に置かれていたようですね。」この試合の観衆は5,000人。県西部では初のプロ野球興行だっただけに、さぞ酒樽は満たされたことでしょう。

 山戸さんの脳裏には、グラウンドの片隅に見えた飛行機の格納庫が強く印象に残っています。「あの場所は第二次世界大戦中に建設されましたからね。戦時中は小さな飛行機が離発着を行っていたようです。その名残りだったのでしょう。」野球と格納庫。平和が戻った中で見かけた奇妙な光景が、今も忘れられません。

 

 この試合のボールボーイを務めたのは、地元大竹高校の野球部員でした。そのうちの一人が、当時高校2年生で後に南海で活躍した広瀬叔功さん(84)です。「警察学校の隣りに校舎があった縁で頼まれたのでしょう」と、70年近く前になる記憶をたどりました。

 「それまでプロ野球は県営球場で東急と大阪タイガースの試合を1回見ただけでした。私はタイガースファンでしたが、巨人の選手を間近で見られるのが嬉しくて当日を楽しみにしていましたよ。」当時のメンバーは打撃の神様と言われた川上哲治、好守巧打の二塁手・千葉茂、1951年の日本シリーズMVPに輝いた強打の外野手・南村不可止など多士済々。中でも千葉の華麗な内野守備には目を奪われました。「ノックでボールを取るでしょ。すると一塁の川上さんを一切見ずに投げるの。それがいい送球でね。“さすが!”と思いましたよ。」目の当たりにした伝説のノールックスローが、今も脳裏に焼き付いています。

 場所はプロ野球が開催されたとはいえ「野球場」と言うのがはばかられるような、ただただ広いだけのグラウンドでした。「そうやね、広さはここの3倍ぐらいあったかな」とマツダスタジアムの記者席から眼下のグラウンドを見渡しながら回想します。バックネットこそありましたが、スタンドはもちろん、常設のフェンスもありません。外野フェンスの代わりには、学校の渡り廊下のスノコ板が荒縄で棒杭に固定されていました。「(バッティング練習で)柵をくぐり抜けた打球や、試合中のファウルボールを何回も拾いに行きましたが、まあ広くて大変でしたよ。巨人の選手を近くで見られたことより、そっちの思い出のほうが強いかな」と苦笑いしました。

 広瀬さんは高校3年生になった翌年秋、南海の入団テストを受け合格。3年目の1957年に一軍定着すると、1961年から5年連続パ・リーグ盗塁王を獲得するなど、俊足の外野手として活躍。22年間でNPB歴代24位の2157安打を記録しました。大竹市で唯一開催された公式戦でボールボーイを務めた高校球児は、その後球史に名を刻む名選手に成長を遂げたのでした。

 広島管区警察学校はその後、広島市内へ移転。跡地は払い下げられ、今は民間企業3社の工場が建ち並びます。その1社である三井・ダウ ポリケミカル大竹工場の敷地の一角には「大竹海兵団跡」の碑が建てられています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・広瀬叔功さん
山戸一成さん
三井・ダウ ポリケミカル株式会社 大竹工場