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【球跡巡り・第44回】幕張のウグイス嬢が思慕を寄せる 帯広市営緑ヶ丘公園球場

 日本ハム対オリックス戦が7月14日、北海道帯広市で開催されました。会場の帯広の森野球場は1990年完成で、それ以前のメイン球場は緑ヶ丘公園内にあった「緑ヶ丘球場」でした。終戦後の1946年10月に完成し、2年後の1948年8月2日に挙行した巨人対金星、阪神対大陽の変則ダブルヘッダーが、帯広でのプロ野球公式戦の始まりです。

 7月29日の函館を皮切りに、旭川、帯広、札幌と周り、再び函館へ戻る11日間の日程の中での開催。当時道内の交通網は至便とは言えず、国鉄の臨時列車を手配しての移動でしたが、4チームの選手が同じ車両に入り混じり行脚する様は、まさに呉越“道周”でした。

 その遠征の模様を記録した貴重な写真が野球殿堂博物館に保管されています。この帯広開催で、各チームの旅館と球場の往復は自衛隊所有の2トン半トラックの荷台に乗せられてのものでした。しかも、荷台の両サイドに囲いはなく、1本の縄が簡易的に張られただけ。そこに20人を超す選手、関係者がすし詰めになり、立った状態で走行しました。安全面はもちろん、道路交通法違反も懸念されるショットから、戦後わずか3年の世相が伝わります。(写真参考)

 地理的要因もあったのでしょうか、プロ野球開催は2年後の1950年7月の毎日対大映戦を含めわずか3試合でした。プロ野球とは縁の浅い球場ですが、「40代後半以上の十勝の野球好きには思い出深い球場です」と思慕を寄せるのは、ZOZOマリンスタジアムで場内アナウンスを務める千葉ロッテの谷保恵美さんです。

 帯広市に生まれた谷保さん。父の三島直政さん(87)は帯広三条高校と帯広北高校で野球部の監督を務め、延べ4回甲子園に導いた名指導者でした。必然的に幼いころから野球に触れる環境にありました。「小、中学生の時は父がちょうど監督を退いていたので、緑ヶ丘球場のスタンドでよく一緒に野球を見ました。」球場で行われた元巨人監督川上哲治氏の野球教室で配られた、川上さんの下敷きを「ずーっと、大事に持っていました」と学生時代を懐かしみます。

 帯広三条高校では野球部の女子マネジャーを務めました。「私が高校生になった時には、バックネットなんかもボロボロでしたね。先生とスコアを付けたり、選手と一緒にグラウンド整備をしました。そう、水撒きもやりましたよ。」脳裏には次々と緑ヶ丘球場での思い出が蘇ります。当然、今の仕事につながる“ウグイス”の話しも、と期待します。ところが場内アナウンスは放送部員の担当で、谷保さんが高校時代この球場のマイクを握ることはありませんでした。

 「放送部員の姿を見て、試合進行をやってみたいと思いました。テレビで甲子園大会を見ながら、アナウンスのマネをやっていましたね。」単に選手の名前を呼び上げるだけでなく、自らの声で試合をつかさどる仕事への憧れが膨らみます。卒業後は札幌市内の大学に進み、円山球場などで行われる大学野球のリーグ戦で場内アナウンスを担当。プロ野球への思いは一層高まりました。念願が叶い、1990年2月にロッテ球団入社。翌1991年のシーズンから場内アナウンスに携わるようになりました。

 研鑽を積んでいた3年目の1993年。故郷帯広から便りが届きます。老朽化が激しい緑ヶ丘球場の取り壊しが決まり、それを前に帯広三条高校野球部卒業生によるOB戦開催の知らせでした。公式戦も盛りの夏でしたが、それに参加するためだけに帰省。「アナウンスをマネジャーOGが交代でやりながら、ボロいスコアボードに得点を入れに行きました。」青春の思い出が詰まった球場の閉鎖はやるせない気持ちでしたが、高校時代憧れていた場所でアナウンスを実現できたのです。「ついに夢が叶い、よかった。」プロ野球での場内アナウンス歴31年。一軍公式戦担当が1928試合となった今でも、そこにカウントされない“1試合”の胸の高ぶりを忘れることはありません。

 十勝の夏空に谷保さんの美声が響いて数カ月後の1993年10月。緑ヶ丘球場は47年の歴史に幕を閉じました。それ以降、十勝の野球人の想いは冒頭の帯広の森野球場に刻まれています。跡地はパークゴルフコースとして整備され、緑の芝生の上で初老の男女が楽しくボールを弾いていました。ベースがあった4か所にはその形をした石が置かれ、かつてここに野球場があったことを偲ばせています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・谷保恵美さん
写真提供・野球殿堂博物館