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【球跡巡り・第47回】日本で唯一 シャンツェを併設した野球場 函館市民球場

 世界三大夜景の街と賞される北海道函館市。函館山から見渡す魔法の輝きに、多くの観光客が魅了されます。山頂へのロープウェイがある山麓駅周辺も、晴れた日には本州の下北半島が望める風光明媚な場所です。近くにある青柳中学校の敷地の一角には「函館市民運動場」の石碑が建っています。ここはかつて、野球場のほかテニスコートや大弓場(弓道場)などを併設した総合グラウンドでした。

 1936年10月の昭和天皇の行幸を記念して建設され、1940年7月に完成。その設計には、1934年の日米野球のために結成された全日本チームにも参加し、函館太洋(オーシャン)倶楽部で活躍した久慈次郎もかかわっていました。市民運動場建設の話しが持ち上がった時、久慈は同倶楽部の選手兼監督の傍ら市会議員(市議会議員)を務めていたのです。

 巨人、大洋、南海、黒鷲の4球団が、北海道初となる公式戦のため青函連絡船で津軽海峡を渡り、この球場を訪れたのは1942年6月13日でした。1936年に始まった職業野球が九州や四国で公式戦を開催したのは戦後のこと。すなわち、この日の第一試合大洋対黒鷲6回戦は、本州以外で行われた初の国内公式戦でした。(満州では1940年8月にリーグ戦を開催)

 「空は紺碧 野球日和 どっと観衆五千!」初夏の港町で開催された熱戦を、主催の小樽新聞(読売新聞の姉妹紙)は感嘆符入りの見出しで伝えています。試合前には開会式を行い4球団、全92選手が入場行進。マウンド付近に整列したその選手たちが、驚きの表情で右翼ポール際のスタンドを見つめていました。視線の先には…何とスキージャンプの小型シャンツェが設置されていたのです。

 夏は野球、冬はスキー。北国ならではの趣向でした。「野球場でスキージャンプ」は今では考えられませんが、1938年の新春に後楽園と甲子園で第1回全日本選抜大会が開催されています。スタンドの傾斜を活用し、特設の木造やぐらを組みジャンプ台を設置。そこに北国から貨車で運んできた雪を敷き詰めました。しかし、シャンツェが常設された球場はここだけでした。久慈が特設ジャンプ台に設計のヒントを得たか定かではありませんが、日本で唯一の「シャンツェを併設した野球場」が、彼のアイデアだったことは間違いないでしょう。

 残念ながら、開会式に久慈の姿はありませんでした。1939年8月に札幌円山球場で行われた北海道樺太実業団野球大会の試合中、球禍により落命したのです。市民運動場完成1年前のことでした。現役時代の闘志あふれるプレイを称え、社会人野球の都市対抗野球大会に久慈賞(敢闘賞)としてその名を残す“球聖”は、1959年に野球殿堂入りを果たしています。

 函館市中央図書館が所蔵する「函館公園観光之栞」に市民運動場の平面図があり、野球場の右翼ポール際にはシャンツェの文字とジャンプ台が記されています。そのシャンツェで「22メートル飛んだ」と語るのは市内在住の納代(なしろ)正信さん(91)です。

 子供のころから野球とスキージャンプに興じ、函館中(現函館中部高)では1946年の第28回全国中等学校優勝野球大会(西宮球場)に、市民球場での予選を勝ち上がり道代表で出場しました。「その年の冬でしたかね、市内の生徒6人ほどが参加した小さなジャンプ大会がありました。優勝した子は24メートルぐらい飛んだのかな」と75年前の記憶をたどりました。納代さんが演じた「夏は野球、冬はスキージャンプ」の“二刀流”に、天国の久慈も微笑んだことでしょう。

 「ライトの後ろが斜面になっていたので、その傾斜を生かして造られていました。最長でも25メートルほどしか飛べないスモールヒルでしたが、それまでは愛宕山の広場にほんとうに小さなジャンプ台しかなかったので貴重でしたね。」久慈の功績を称えました。

 函館太洋倶楽部の拠点としても重要な球場でしたが、1951年7月に市内千代台町に千代台球場(現函館オーシャンスタジアム)が完成したこともあり、わずか10数年で閉鎖。跡地は1954年7月に開催された「北洋博覧会」の会場を経て、翌年潮見中学校として開校。2018年4月から近隣3校が統合して青柳中学校になりました。

 航空写真では、球場だった地形を生かし校舎が建てられたことはわかりますが、シャンツェがあったと思われる辺りは草木が生い茂り、形跡を見つけることはできません。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・納代正信さん
函館市中央図書館
函館市役所
参考文献・「函館オーシャンを追って」小林肇
「函館散策案内」須藤隆仙
「小樽新聞」1942年6月14日付朝刊
写真提供・野球殿堂博物館