【球跡巡り・第61回】金田正一(国鉄)プロ入り初の「マダックス」達成 鶴岡市営野球場
JR新潟駅を出た「特急いなほ」は荒波が立つ初冬の日本海を左手に北上し、2時間弱で山形県鶴岡市の鶴岡駅に到着。江戸時代から続く城下町は、かつて藩主だった酒井家が庄内入部400年の節目を迎え、にぎわっていました。
この地とプロ野球の関係は古く、職業野球が始まる前年の1935年9月に巨人軍が北海道遠征の帰途に立ち寄り、紅白戦を行っています。当時の鶴岡に野球場はなく、鶴岡工業のグラウンドを借りることになりましたが、同校の校長は「職業野球なんかに教育の場を貸すことはできない」と使用を拒否。関係者が県の教育長に直談判し、なんとか「見て見ぬふり」で開催に漕ぎつけましたが、当時の職業野球の置かれた立場を物語るエピソードです。
待望の市営野球場建設開始は戦後の1946年。場所は水田になっていた、かつての鶴ヶ岡城の外堀でした。敷地の埋め立ては失業対策事業の労働者で行う予定でしたが集まらず、野球連盟加入47チームの選手や関係者による勤労奉仕で行い、1948年5月に完成しました。
「先輩たちが、もっこを担いで土を運んだ手作りの球場でした」と語るのは、前鶴岡地区野球連盟会長の渋谷益生さん(78)です。「苦労して作られたようですが、昔はお堀だった場所なので水はけが悪くて大変でした。特に外野の乾きは悪く、よく水溜りが出来ていました。ドジョウや小魚が泳いでいましたよ(笑)。それでいて、夏にカンカン照りの日が続くと内野はコンクリートのように固くなるんです」。渋谷さんの悲哀は、後にこの地の球場建設に生かされることになります。
市営野球場では一リーグ時代の1949年8月14日の東急対中日戦をはじめとして、プロ野球公式戦を3試合開催。最後のゲームとなった1952年7月19日の国鉄対松竹戦では、入団3年目の国鉄の若き左腕金田正一投手が先発しました。
1回表を無安打と上々の立ち上がりの金田。その裏、松竹の目時春雄捕手が1950年に誕生のセ・リーグで初となる審判員への暴力行為で退場というハプニングがありましたが、動じません。5回まで無安打の快投を見せると、最後まで三塁ベースを踏ませることなく散発の3安打に抑え、松竹打線を零封。国鉄が4対0で勝ち、金田は15勝目を挙げました。
球数わずか95球の省エネピッチングでした。投球数100未満の完封勝利は「マダックス」と言われ、近年注目を集めています。球史にさん然と輝く400勝投手金田の完封勝利は、歴代2位の82。そのうちマダックスは14回達成していますが、初回がこの試合でした。山形県での白星はキャリアでこの1勝だけでしたが、記録に残る快投を見せていたのです。
球場は数度にわたりスタンド改装を行い、1991年にはベンチやグラウンドなどの全面改修工事も行いました。しかしその後、新築移転の流れになり1999年市内の小真木原町に、国内唯一のアマチュア公式戦開催規格を満たした内外野天然芝の新球場が誕生しました。それを働きかけたのが、前出の渋谷さんをはじめとした野球連盟の関係者でした。「中学生を連れてハワイ遠征に行きました。その時、オール天然芝でのプレーに選手たちが喜んだのがきっかけでした。市営球場はローカルで、グラウンドも誇れるものではありませんでした。いつかは全国から注目される球場を、との思いもありましたね」。
新球場は「鶴岡ドリームスタジアム」と命名され、完成直後の1999年8月には、当時「アマ最強」と言われたキューバとの親善試合を開催。海外の球場の多くが内外野天然芝になっていることから、その後はアマチュア野球の日本代表チームの合宿が行われるなど、強化拠点になりました。
市営球場の跡地を歩きました。全面改修後の1992年、イースタン・リーグの日本ハム対巨人戦が行われ、その記録員として訪れて以来30年ぶりに。一帯は慶応義塾大学の鶴岡タウンキャンパスとして先端生命科学研究所などの施設が建ち、百間堀の一部も再現されるなど、様変わりしていました。野球場の痕跡も皆無ですが、70年以上前この地に初めて球場を作った野球人の思いは、新球場へ引き継がれたことでしょう。2022年夏、鶴岡ドリームスタジアムは野球の「聖地・名所150選」に選ばれました。
【NPB公式記録員 山本勉】
調査協力・ | 渋谷益生さん 鶴岡市郷土資料館 鶴岡市立図書館 鶴岡市スポーツ協会 |
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参考文献・ | 「個性の人 工藤武」-沢村の球を打った男- |
写真提供・ | 鶴岡市郷土資料館 鶴岡市 |