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【球跡巡り・第63回】南海に散った特攻隊員も白球を追った 徳島西の丸運動場

 JR徳島駅の北側に広がる徳島中央公園にはかつて徳島城があり、西の丸御殿跡地では明治時代から小学校の連合運動会などが開かれていました。その地に木造スタンドが造られ「西の丸運動場」として開場したのは1929年。4年後の1933年にはスタンドがコンクリート製に改築され、陸上競技のほか野球や庭球ができる施設も整備されました。

 運動場はトラック、フィールドの諸設備が整っていたため、日本陸上競技連盟から甲種運動場として公認されました。当時、そのお墨付きが与えられたのは明治神宮外苑競技場、大阪市立市岡競技場、甲子園競技場などしかなく、西の丸運動場は日本で五指に入る立派なグラウンドともてはやされました。

 四国のプロ野球史はここから始まっています。終戦から2年後の1947年。地元徳島新聞社の主催で8月9、10日の2日間、金星、南海、太陽、中日の4球団が変則ダブルヘッダーで4試合を開催。これが徳島県はもちろん、四国初となる公式戦でした。前売り券は完売し「10円、20円のプレミアムが付いた」盛況ぶりで、「4チームが精根を傾けての美技、快打はプロ野球のスリルを満喫させ、全観衆を感嘆と興奮の陶酔境においこんだ」と徳島新聞は伝えています。

 ここでは1953年までの7年間に9試合の公式戦が興行されましたが、1952年3月25日に行われたセ・リーグ唯一の松竹対巨人戦は両チーム合わせて35安打の乱打戦に。巨人が毎回の16安打を放てば、松竹も毎回の19安打で応酬。毎回安打は珍しい記録ではありませんが、「両チーム毎回安打」となるとプロ野球史上初めてでした。87年の球史でわずか6回の希少な記録の初回は、徳島西の丸運動場に刻まれています。

 一リーグ時代の1943年には朝日軍がこの地で春季キャンプを張りました。戦時下で参加選手は少なく、監督の竹内愛一を含めても総勢16人(登録は21人)。その中に長野県の小諸商業から入団のルーキー・渡辺静選手の姿がありました。渡辺は甲子園大会への出場こそありませんが、投手のほかに内外野をこなす器用さを持ちあわせ、打者としての打力も評価されていました。竹内監督が直々に渡辺の地元、長野県の小諸まで足を運んで獲得した逸材でした。

 プロ野球の世界へ飛び込む若者の胸中は、いつの時代も期待と不安が入り混じり、郷里への思いが募ります。渡辺がキャンプ地徳島から長野の実家へ送った手紙が残されています。「一日から四国の方に来て練習している。大阪から六時間で四国にくる。信州から見ると非常に暖かく、三月の終わりから四月の初めの気候である。目の前には太平洋の黒潮がおしよせ、みかんがきれいになっている。」

 1年目の成績は代打で2試合に出場し、2打数ノーヒット。プロ野球のレベルの高さを痛感させられました。来季こそ――。そう誓ったに違いありませんが、渡辺に2度目の徳島キャンプは訪れませんでした。1943年の半ばになると戦局は一段と厳しくなり、秋には学徒出陣が決定。朝日軍に在籍しながら、夜は専門学校に通っていた渡辺にも出陣命令が下り、いや応なしに戦場へ駆り立てられることになったのです。好きな道で選んだプロ野球でしたが、国の大きな波には抗しきれず、朝日軍を1年で退団しました。

 その後、渡辺は陸軍特攻隊員となり1945年6月6日、南海の彼方へ散って行きました。その経緯は、渡辺の甥にあたる元読売新聞記者の中島正直氏が著した「白球にかけた青春」(株式会社櫟)に詳しく掲載されています。先の大戦で命を落とし、東京ドームにある鎮魂の碑に祭られたプロ野球選手は76名。そのうち特攻隊員となり出撃して落命したのは、名古屋軍(現中日)のエースとして活躍した石丸進一投手と渡辺静の二人だけです。

 鹿児島県南九州市。渡辺はここにあった知覧飛行場から飛び立ちました。市内にある知覧特攻平和会館には命を落とした特攻隊員たちの遺書や遺品があり、渡辺のバットやノートのコピーも展示されています。

「野球生活八年間 わが心 鍛へてくれし 野球かな」

 出撃の一週間前、こう書き残しました。プロの第一歩を踏み出した徳島キャンプも脳裏に浮かんだことでしょう。

 西の丸運動場はその後、陸上競技専用施設となり徳島市が管理運営しました。1976年に市内南田宮に市営陸上競技場が完成すると閉鎖され、跡地には内町小学校が建設されました。80年前、渡辺が生涯1度だけの春季キャンプで野球に打ち込んだグラウンドはいま、児童たちの元気な声がこだましています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・中島正直さん
知覧特攻平和会館
南日本新聞社
参考文献・「徳島市史第5巻」徳島市教育委員会