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【球跡巡り・第66回】日本初のプロ野球試合が行われた舞台 鳴海球場

 愛知県名古屋市緑区にある「名鉄自動車学校」。上空から見る地形は野球場のままで、教習コース内には銘板が設置してあり、一塁側と三塁側にあったスタンドも往時のまま残されています。ここはかつて、日本初のプロ球団同士の試合が行われた鳴海球場でした。

 「東の神宮、西の甲子園」に対抗して愛知電気鉄道(現名古屋鉄道)が、自社の所有地約10万坪に総工費36万円を費やして1927年に建造。ネット裏席には鉄傘がかけられ、甲子園のアルプススタンドに対抗して「伊吹スタンド」という内野席を設置し、2万2500人を収容しました。驚くべきはグラウンドのサイズで、両翼106メートル、中堅136メートルと国際規格をも超える広さでした。(その後、縮小されます)

 開場当初から東海地区の中等野球のメッカとなったほか、1931年にはルー・ゲーリックが、1934年にはベーブ・ルースが日米野球で来場しプレーをしています。そして1936年には日本初のプロ球団同士の試合が行われました。現在のNPBが「日本職業野球連盟(NPBL)」として7球団で発足し、創立総会が開かれたのは1936年2月5日。その4日後の9日に、ここ鳴海球場で名古屋金鯱(きんこ)軍と東京巨人が対戦しました。第2回米国遠征へ出発する巨人の壮行試合(非公式戦)でしたが、これが「日本初のプロ野球試合」と位置付けられているのです。

 試合は初回に金鯱軍が2点を先制。2回には途中からマウンドに立った巨人のエース・沢村栄治を攻略し3点を追加。巨人は3投手で18四死球と乱調で、試合は10対3で金鯱軍が勝利を収めました。金鯱軍のスポンサーでもある名古屋新聞は、翌日の紙面ほぼ1ページを割いて報道。「鳴海球場に揚る歴史的歓呼」と手放しの喜びようでした。

 プロ野球の公式戦は一リーグ時代に35試合を開催。二リーグ分立後の1951年には名古屋鉄道がドラゴンズに資本参入したこともあり、直営である鳴海球場での開催を見込み、スタンドをはじめとした大規模な改修工事を行いました。しかし、市の中心部に近い場所には中日スタヂアムがあり、鳴海球場は交通の便の悪さもあってか、行われたセ・リーグ公式戦はわずか18試合。1953年5月3日の名古屋対阪神11回戦が最後の試合と、徐々に影を薄くしていきました。

 それでも1954年に32勝を挙げ、中日ドラゴンズのリーグ初優勝、日本一に貢献した杉下茂さん(97)は「中日が日本一になれたのは鳴海育ちの選手がいたから」としみじみと話します。二リーグ分立以降、鳴海球場での中日の一軍戦開催こそ減ったものの、近くには「鳴海ハウス」と呼ばれる球団合宿所があり、球場は二軍本拠地として若手の鍛錬の場になったのです。

 そのうちの一人が、1954年に松山商業から入団した児玉(旧姓:空谷)泰さん(87)です。新人ながら28試合に登板し、129イニングを投げ7勝を挙げました。1月に鳴海ハウスに入寮し、キャンプまでの一カ月間は基礎体力作りで鳴海球場を使ったそうです。「鳴海ハウスで先輩のお下がりのユニフォームに着替え、歩いて球場に行きました。外野に芝生はなかったけど、スタンドもグラウンドも大きかった。甲子園に負けないくらい立派な球場でしたね」と70年近く前の情景をたどりました。

 児玉さんと同期で観音寺一高から入団の大矢根博臣さん(87)も、優勝争いが佳境を迎えた9月以降に2勝を挙げ貢献しました。8月28日の国鉄戦で一軍初登板するまで二軍で牙を研いでいただけに、その記憶は児玉さんよりも色濃く刻まれています。「香川の田舎から神戸経由で初めて名古屋に来ました。都会に行けると期待していましたが、夜中に着いた名古屋駅の駅舎はたいしたことなく、鳴海ハウスの周辺は建物も少なくがっかりしました。自分の田舎と変わらなかった」と当時を思い浮かべ苦笑しました。

 二軍戦で登板した鳴海球場のマウンドも鮮明に記憶にとどめます。「土が軟らかくて、踏み出す足ですぐ掘れて投げにくかった。私はスピードではなくコントロールピッチャーだったので、それがイヤでしたね」。寮の部屋は6畳一間に先輩たちと三人で寝泊まり。「パンツを洗っとけ」と私用を頼まれ、「蚊帳のつりかたが悪い」と小言も頂戴したそうです。「それがイヤで、早く一軍に上がりたい一心でした」。一軍初勝利を挙げた9月23日の洋松戦(中日)は、8回2死までパーフェクトピッチング。完全試合まであと4人という圧巻の投球内容で存在感を誇示しました。

 鳴海球場はその後、1958年の高校野球秋季愛知県大会で幕を閉じ、翌年から現在の自動車学校に生まれ変わりました。2007年には元のホームベースがあった場所に金のホームプレートが、冒頭の銘板とともに設置されました。教習コースを囲むように残された「伊吹スタンド」と名付けられた一、三塁の内野席は、かつての野球場を今に伝える貴重な証言者です。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・児玉泰さん
大矢根博臣さん
佐藤啓さん
名鉄自動車学校
参考文献・「大正15年より昭和5年の間における名古屋近郊の野球場の建設」滝正男
「ボクの思い出STADIUM 鳴海球場」中日スポーツ(CHUNICHI Web)
写真提供・ろじうら珈琲店
名鉄自動車学校