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【球跡巡り・第74回】武蔵野台地に一瞬煌めいた 東京スタディアム

 東京都の西部に位置するJR三鷹駅から北に約1.5キロメートル。数棟の集合住宅を取り囲むように作られた道路は、緩く大きな楕円を描いています。ここには1950年代初頭、プロ野球の公式戦を行なう目的で建設されたにもかかわらず、たった1年しか使われなかった「東京スタディアム」がありました。

 球場を造ったのは東京・丸の内に本社を置く東京グリーンパーク。開場時のパンフレットによると両翼91.4メートルながら、中堅は128.1メートル。後楽園球場の1.5倍の明るさを誇るナイター照明を完備し、収容人員7万人という超ビックスケールでした。しかも、観客の足の便を考えて三鷹駅から球場の正面入口まで鉄道を敷設するなど、環境整備にも抜かりはありませんでした。

 球場の竣工は1951年4月。それに先立つ3月15日にセ・リーグは代表者会議を開き、ここを国鉄(現ヤクルト)のフランチャイズに決定しました。球場は東京スタディアムの正式名称のほかに、ファンから親しまれるため愛称を「グリーンパーク」としました。4月14日の東京六大学野球リーグ戦でプレオープンし、こけら落しは5月5日の国鉄対名古屋(現中日)戦。子供の日とあってスタンドには2万5000人の小中学生が招待され、高松宮殿下がスタンドから記念ボールを投入し、華々しく開場しました。

 試合は国鉄先発の2年目左腕金田正一投手が、名古屋打線を被安打6、3失点に抑える力投で、国鉄が6対3と快勝しました。翌6日に行われた巨人戦も7対5で勝利し2連勝。ホームグラウンドとなった球場で幸先よいスタートを切ったように思えました。ところがこの試合の後、国鉄が5月にここで興行を行うことはなく、6月も対大洋戦1試合のみでした。プロ野球における正式な本拠地制度の確立は翌年の1952年からで、3月に決定した「フランチャイズ」には曖昧な点もありますが、なぜ立派な球場を使わなかったのでしょう。

 その答えは開場2日目の巨人対名古屋戦を報じた5月7日付けの新聞にありました。

「6回からの巨人は第一試合で5回まで投げた別所を登板させたが、このころからセンターからホームに吹く風が強くなり、グラウンドは砂塵もうもうとして褐色のかすみのような中に豪快なゲームが進められた。」(報知新聞)

 そう、この日は“メイストーム”と呼ばれる強風が吹き荒れ、視界を遮るような土埃が舞ったのです。片隅のコラムにも「さながらホコリ・パーク。グリーンパーク(緑の園)だと思ったのに。芝生はつかず、水は出ず。赤土をまきあげて、風大いににごる」とあります。土盛りの外野席に張った芝生が育たず、そこの赤土がとてつもない土埃となって球場を舞い、とても野球に適した環境ではなかったのです。

 球場はその後、外野に1万席のベンチを設置し、通路をアスファルト舗装にするなど改修工事を施しました。そして国鉄は8月4、5日の2日間、阪神、松竹との変則ダブルヘッダーを開催します。夏休みの週末興行で集客への期待は大きいものがありましたが、観衆は最多でも4000人。4日の国鉄対松竹戦はわずか2500人でした。一度失ったファンの信頼を回復するのは容易でなかったのです。プロ野球の試合は8月19日に行われた毎日対西鉄戦が最後となり、グリーンパークはたった1年で華やかな舞台から姿を消します。公式戦開催はわずか16試合でした。

 野球場研究の第一人者で、1951年のこけら落としの一戦も観戦した沢柳政義さんが、グリーンパークについて語った言葉があります。「とにかく、一にも二にも土埃だったですね。こけら落としの日に強風で赤土が舞った光景を、はっきり覚えています。この土埃は『鬼殺し』と名付けられるほど曲者だった。結局は、これが評判を落として予定通りの興行ができず、わずか1年で東京グリーンパークは倒産した。」(2001年 ベースボールマガジン 夏季号)

 前述のように、プロ野球におけるフランチャイズ制度の確立は1952年でした。この時、首都圏のプロ野球本拠地球場は後楽園と川崎だけで絶対数が不足していました。グリーンパークがあと1年遅く開場していたら、風向きは変わっていたのかもしれません。しかし現実は、管理者を失った大球場は無用の長物となり閉鎖。1956年に解体され、跡地には集合住宅が建てられました。

 三鷹駅から球場正面まで時計回りに弧を描いて敷かれていた武蔵野競技場線は、グリーンパーク遊歩道となり地元住民が散策しています。そこを辿って球場跡地を訪ねました。建ち並ぶ集合住宅の一角に「東京スタジアムグリーンパーク跡」の説明板があり、かつてここに後楽園球場より大きな「東日本一の大球場」が存在したことを伝えています。武蔵野台地に一瞬煌めいた野球場は2022年、「聖地・名所150選」に認定されました。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「2001年 ベースボールマガジン 夏季号」
ベースボーボール・マガジン社報知新聞(1951年5月7日)