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【球跡巡り・第78回】秋田県の球史を30年以上刻んだ 秋田県立球場

 ゴールデンウィーク明けの5月8日。澄んだ空気の下、秋田県では2年ぶりの公式戦となる東北楽天対オリックス8回戦が、こまちスタジアムで行われました。雨天中止やコロナの影響でここ5年間の県内でのプロ野球開催は2試合ですが、1976年から2008年までは33年連続で開催。これは本拠地以外の都道府県では静岡県と岡山県の46年連続に次ぎ、富山県と並び3位の記録です。

 その開催球場は、こまちスタジアムが開場する前年の2002年までは秋田市営八橋球場でしたが、その期間に1年だけ八橋球場に代わり使用されたのが「秋田県立球場」です。今は県立武道館が建つ場所に1972年7月に完成。球場前に秋田運河が洋々と流れ、ライト後方には松林が鮮やかな緑を浮き立たせる自然と調和した野球場でした。

 秋田県の県立球場の系譜は1950年8月に秋田大学鉱山学部(現国際資源学部)の隣りに造られた野球場に始まります。秋田市内には1941年完成の八橋球場がありましたが、戦後の野球熱の高まりで県立球場建設の声も広がったのです。県立球場は地名から「手形球場」として親しまれ、1950年から53年の間にプロ野球を8試合開催。高校野球のメイン球場としても重宝されていましたが、1964年に秋田大学に移管されました。(現在も秋田大学野球場として使用されています)

 その後、約10年の空白期間を経て向浜総合運動場建設構想の一環として造られたのが秋田県立球場でした。海の近くに造られたのでレフトからライト方向へ常に強風が吹き、選手たちにとっては大変な球場でしたが、両翼97.5メートル、中堅122メートルと八橋球場と比べると広く、外野の芝生も手入れが行き届いていました。

 同球場で唯一のプロ野球公式戦が行われたのは、八橋球場が大規模改修工事で閉鎖されていた1990年。5月20日に収容人員1万2000人のスタンドに1万6000人の観衆が詰めかけ、ロッテ対近鉄戦が開催されました。ロッテが園川一美、近鉄が阿波野秀幸の先発で始まった試合は、2対2と同点の9回表に近鉄山下和彦捕手が勝ち越しタイムリー。近鉄阿波野はその裏、2死から走者一、二塁のピンチを招き完投目前で降板しますが、リリーフの吉井理人投手が後続を抑え近鉄が3対2で辛勝。入団4年目の阿波野にとってプロ入り通算50勝目と節目の白星でした。

 プロ野球とは縁の薄い球場でしたが、高校野球の県大会では八橋球場と並ぶ主要球場の位置付けで、多くの高校野球史が刻まれました。1976年から84年まで9年間、秋田高校野球部監督を務めた大久保正樹さん(76)は「監督としての自分を育ててくれた球場です」と若き日の思い出が色濃く残ります。

「監督になって2年目、3年目の夏は手応えがある中で迎えた大会でした。ところが、能代高校に高松直志という好投手がいて2年連続この球場で敗れました」。高松投手は右足を顔の上まで蹴り上げ、両腕を大きく広げながら左腕から豪速球を繰り出し、3年夏の秋田県大会では39イニングでなんと62奪三振。2年連続で甲子園に出場し「東北の星飛雄馬」と呼ばれた剛腕でした。打ち砕かれた自信、閉ざされた甲子園への道。「ですから、勝負の観点で言えば県立球場はゲンのいい場所ではなかったですね」と苦笑いしつつ、「この時の負けの悔しさがあったから、その後“なにくそ”と奮い立つことが出来たのです」と振り返ります。

 花を咲かせたのは監督就任8年目、1983年の夏。チームは予選6試合のうち5試合が完封勝ちという圧倒的強さを見せつけ、秋田47校の頂点に立ちました。秋田高校にとって1973年以来、10年ぶりの夏の甲子園出場でした。

 予選で敗れ、最後の夏が終わった後に球場で行ったミーティングも忘れられません。「君たちにはもう一回大学野球でチャンスがある。“第2の甲子園”と言われる神宮球場で頑張れ、と伝えましたね」。文武両道の秋田高校からは多くの球児が東京六大学へ進学。教え子では近鉄や巨人などで活躍し参議院議員を務める石井浩郎(早稲田)や、秋田県の副知事を務める猿田和三(慶應)らが神宮の杜を沸かせました。「大学でキャプテンを務めた選手も多く、みんな頑張ってくれました」。県立球場で白球を追った選手たちの姿を思い浮かべながら、その後の活躍に目を細めました。

 2代目の県立球場として30年以上存在感を示しましたが、2000年代に入ると3代目となる新球場「こまちスタジアム」の建設が決まり、2001年7月の夏の高校野球大会を最後にその役目を終えました。跡地には前述のように県立武道館が建設されました。その敷地の外周は、かつてここが野球場だったことを思わせる円形になっています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・大久保正樹さん
参考文献・秋田さきがけ(1972年7月15日)