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【球跡巡り・第79回】「サッシー」現る! 先頭打者から16者連続奪三振 長崎市営大橋球場

 第二次世界大戦末期の1945年8月9日に原子爆弾が投下された長崎県長崎市。この街で初めてプロ野球公式戦が開催されたのは終戦から5年後の1950年でした。ただし当時市内に公設球場はなく、会場は長崎商業高校の校庭でした。公設の長崎市営大橋球場の完成はそれから1年後の1951年4月。市中心部の松山町に造られ、両翼90メートル、中堅115メートル。1万1000人収容のスタンドを完備していました。外野席には柳の木が並び、その後ろはトタンの壁で囲われた、質素ながらも趣のある野球場でした。

 一軍公式戦は球場完成直後の1951年5月17日の大洋対阪神戦を皮切りに、時代が平成を迎えた直後の1990年までに26試合が行われました。球場が最も沸いたのは、地元出身のルーキー投手「サッシー」が凱旋登板を果たした1977年でした。

 サッシーとは、1976年のドラフト会議でヤクルトから1位指名され入団した長崎海星高出身の酒井圭一投手のこと。酒井投手はその年の夏、大橋球場で炎天下に汗をしたたり落としながらノーヒットノーランに、初回先頭打者から16者連続奪三振の離れ業も演じ、母校を甲子園出場に導きました。長崎大会5試合で37イニングを投げ失点0。許した安打はわずか4本。そんな超人的快投に、英国・ネス湖の未確認動物ネッシーになぞらえた異名が「サッシー」でした。

 その怪物右腕が5月28日に行われたヤクルト対中日3回戦で先発マウンドに立ったのです。ネット裏には生まれ故郷の壱岐市から両親が、そして高校時代の恩師・井口一彦監督が顔を見せ、スタンドは満員の1万1000人の観衆で埋まりました。母校・海星高校野球部後援会作成の「がんばれ酒井圭一君」と染め抜いたのぼりも、薫風にはためいていました。

 プロ入り5試合目の先発登板。地元ファンの声援を後押しに初勝利の期待が膨らみます。ところが初回、味方の失策もあり1点を先制されると、2回には金山仙吉に本塁打を浴び、谷沢健一デービスに長短打されて46球でマウンドを降りました。5月14日の大洋戦に続き1回2/3での降板。マウンドの土こそ「高校時代と同じ感触」でしたが、またしてもプロの水の苦さを思い知らされました。

 大橋球場のマウンドには4年後の1981年5月17日の広島戦でも上がりますが、2イニングで2本塁打を打たれ2失点。結局14年間のプロ生活で、この球場での登板はこれが最後となり、サッシーが高校時代の怪物ぶりを地元で再現することはできませんでした。

 サッシー旋風に沸いた夏から5年後。1981年夏の高校野球大会決勝は長崎東と長崎西の「東西対決」に。ノーシードから勝ち上がった伏兵同士の対戦でしたが、ともに旧制長崎中の流れをくむ県内屈指の伝統校だけに、スタンドは満員の観衆で埋まりました。

 「試合前から凄い盛り上がりでしたね。父兄に同級生、伝統校なのでOBもたくさん詰めかけ、芝生の外野スタンドまで超満員でした」。当日の光景を鮮明に記憶しているのは、長崎西のエースだった小阪好洋さん(61=前長崎税関長)です。

 夏の大会の前哨戦、NHK杯では長崎商に「滅多打ちにあいコールド負けでした」と言うだけに下馬評は高くありませんでした。それが3回戦でNHK杯を制したシード校の西海学園を破ると波に乗り、準決勝は後に社会人野球日本代表の監督も務めた小島啓民のいる諫早を小阪投手が零封。2対0で勝利し、決勝進出を果たしました。

 「3回戦から連投だったので大会期間中に4~5キロ痩せて、決勝戦の時は体重が53キロまで減っていました。ハードでしたね」と振り返る夏。気力で右腕を振り続けました。雌雄を決する長崎東との一戦は、3対3の同点から7回裏に1点を勝ち越します。8回表の満塁のピンチをしのぎ、1点差で最終回へ。「二死二塁で3番打者を迎えましたが、ベンチの指示で敬遠。最後は4番を打つエースの川口君をセンターフライに打ち取りました」。長崎西にとって30年ぶり3回目の夏の甲子園出場が決定。高々と舞い上がった打球をセンターの吉岡選手が掴んだシーンは今も脳裏に焼き付いていて、「生涯忘れられない瞬間です」と回想しました。

 多くの高校球児が思い出を刻んだ球場は老朽化のため1995年3月に解体され、跡地には97年7月、県営野球場(通称長崎ビッグNスタジアム)が完成しました。「2000年に入ってすぐの頃、決勝を戦ったメンバーが県営野球場に集結し試合をしました。当時、私は仕事でタイに駐在していましたが、それに参加する目的だけで帰国しました。私と川口君が先発しての再戦でしたが、見事にリベンジされましたね」と苦笑い。前日には前夜祭も行われ、酒を酌み交わしながら旧交を温めたそうです。18歳の夏、白球により大橋球場で紡がれた縁は、約20年後に新球場でクロスしたのです。

 高校を卒業して40年以上が経過。いまでも野球部の動向は気になります。「6月にビッグNで行われたNHK杯はスタンドで観戦し、母校に声援を送りましたよ」。長崎西の甲子園出場は小阪さんの時を最後に遠ざかっています。もちろん願いは一つ、43年ぶりの頂点。夏の高校野球長崎県大会は7月13日に開幕します。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・小阪好洋さん
長崎税関
参考文献・「追憶の舞台」読売新聞(2010年10月1日)
長崎新聞(1977年5月29日)

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