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【記録員コラム】甲子園球場100周年コラム Vol.2「試合数と本塁打」

 甲子園では9月20日現在、プロ野球公式戦を5631試合行っています。これは後楽園球場(1937~87年)の7168試合に次ぎ2位の記録です。後楽園はこの先も数字は変わりませんが、甲子園は阪神の本拠地として今も年間70数試合を開催しており、このペースで行くと20数年後にトップに立ちます。

 1936~49年の一リーグ時代は集客や移動の観点からプロ野球を開催する球場は限られていました。総試合数4988試合のうち85%の4238試合は甲子園、後楽園、西宮の3球場で行っています。甲子園では1096試合開催しましたが、阪神戦は約3分の1の380試合で、プロ野球揺籃(ようらん)期は「甲子園=阪神」一色ではなかったようです。

 その380試合も阪神の攻撃全てが「後攻」とは限らず、「先攻」が121試合ありました。1936年の球団初試合からの3連戦は先攻で、初戦の金鯱と2戦目の名古屋に勝ちましたが、3戦目の阪急には延長10回サヨナラ負け。阪神の球団史に残る初黒星は、甲子園球場でのサヨナラ負けだったのです。この他に1941年8月16日対大洋、17日対阪急と2試合連続サヨナラ負けをするなど、一リーグ時代には9度甲子園でサヨナラ負けを喫しています。

 1924年の完成時、本塁から両翼まで111.6メートル、センターまで118.9メートルだったグラウンドは、34年にホームベースを30フィート(9.14メートル)バックネット方向へ移設しました。これにより両翼まで94.8メートルと短くなりましたが、センターまでは128メートル、左中間、右中間は137メートルとさらに一回り巨大化します。

 プロ野球公式戦はこの特大サイズのグラウンドで始まりました。1936年4月29日~5月5日まで、米国遠征中の巨人を除く6球団で「第1回職業野球リーグ戦」を興行。15試合を行いましたが、藤井勇(大阪タイガース)のランニング本塁打が出ただけで、柵越え本塁打は0。甲子園は直後の6月に再び改修工事を行い、本塁から両翼を91.4メートルに。センター、左中間、右中間までは全て118.9メートルと狭めましたが、それでも当時の選手たちが柵越え本塁打を打つことは容易ではありませんでした。

 1941年は77試合行いましたが本塁打は0。延べ6193人が打席に立ち、1本のアーチも描けなかったのです。37年に開場の後楽園は本塁からセンターまで120.5メートルと甲子園よりやや距離がありましたが、両翼はわずか78メートルでした。したがって本塁打が出やすく、41年は175試合で93本塁打が記録されています。戦前の両球場の本塁打数は後楽園の1.7試合に1本塁打に対し、甲子園は15.9試合に1本塁打と10倍近くの差がありました。

 戦後、プロ野球に本塁打ブームが到来すると甲子園も衣替えを迫られます。1947年の公式戦は4月18日に始まりましたが、シーズン途中の5月26日から、両翼からセンター方向へ外野フェンス沿いに仮柵を設置し本塁打を出やすくしました。当日の巨人対阪急5回戦のスコアカードには「本日より外野にラッキーゾーンという柵(ホームとの距離280フィート=85.4メートル)が作られた」と記されています。

 左中間、右中間を狭くした効果はてきめんでした。この日まで甲子園の36試合では1本の本塁打も出ていませんでしたが、柵を設けた初戦でいきなり日比野武(阪急)が左中間のラッキーゾーンに叩き込みました。以後、閉幕までの77試合で60本のアーチが乱舞。翌48年は62本塁打。ラビットボール(飛ぶボール)を採用した49年は100試合で182本塁打と「甲子園=本塁打が出にくい」という戦前のイメージは瞬く間に払拭されました。

 セ・リーグの1チームゲーム最多本塁打は9本で2度記録されていますが、そのうちの1回は阪神が甲子園で刻んでいます。1975年オフの改修工事でラッキーゾーンを拡張し、左中間と右中間の膨らみを削りました。すると翌76年に田淵幸一掛布雅之ブリーデンラインバックらの長距離砲を揃えた打線の特長が生き、9月19日の広島20回戦で51年の松竹以来25年ぶりとなるゲーム9本塁打を記録。その推定飛距離は120メートルが3本、残り6本は110メートル以下でラッキーゾーンに飛び込んだと思われます。

 阪神は1985年に219本塁打の球団記録を作りましたが、甲子園61試合でも最多記録の109本塁打と量産。相手チームも76本塁打を放ち、1試合平均本塁打は3.03本。52年のフランチャイズ制確立以降初めて、リーグで最も本塁打が出やすい球場になりました。翌86年は平均本塁打こそ2.41本と減少しますが、本塁打率は変わらずリーグ1位でした。こうなるとラッキーゾーン設置の是非が議論されます。81年には下田武三コミッショナーが、野球規則の基準を満たしていない球場が多いことに業を煮やし「野球大国としては恥ずかしいものだ」と、12球団に野球場整備に関する要望書も出していました。そんな中、88年に本塁から両翼まで100メートル、センターまで122メートルの東京ドームが誕生します。

 こうした流れを受けて、1991年のシーズン終了後にラッキーゾーンを撤廃しました。すると92年の本塁打は71本と、前年の105本から3割以上も減りました。以後、甲子園は投手有利な「ピッチャーズパーク」に変貌し、阪神選手の本塁打王は86年のバース(47本塁打)が最後で、40年近くキングは誕生していません。「投高打低」が顕著な今シーズンは本塁打の減少に拍車がかかり、58試合で35本塁打(阪神は22本塁打)。1試合平均0.60本塁打は、二リーグ制となった50年以降では56年に記録した甲子園最少の0.53本塁打に迫る低調な数字です。

 本塁打数は球場の大きさだけでなく、その時代ごとの試合球やバットの規格などにも左右されます。加えて甲子園では左打者泣かせの「浜風」が大きく影響しています。最終回はこの浜風について掘り下げます。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「プロ野球記録大鑑」宇佐美徹也
「ベーブ・ルースは、なぜ甲子園でホームランを打てなかったのか」永田陽一