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【球跡巡り・第82回】戦前から半世紀にわたり若鷹を育てた 中百舌鳥球場

 大阪市のほぼ中央を南北に縦貫する大阪メトロ御堂筋線。その終点、堺市にあるなかもず駅の近くに、南海(現福岡ソフトバンク)の若鷹たちが鍛錬を重ねた中百舌鳥(なかもず)球場がありました。

 南海電鉄の前身である南海鉄道が創業50年の記念事業として、1936年春に南海高野線の中百舌鳥駅近くに東洋一の総合運動場の建設を計画しました。しかし、翌年に始まった日中戦争の影響もあり野球場の完成は39年の初夏。前後して陸上競技場、相撲場、卓球場、体育館などが併設されました。

 1938年2月創立の南海軍は秋季リーグから公式戦に参戦。当初は堺大浜球場を拠点にしていましたが、中百舌鳥球場が完成するとここに移転。39年7月28日から3日間、7チームが参加して1日に3試合を行い華々しくオープンしました。しかし、数万人の観客を収容した甲子園や西宮と比較するとスタンドは小さく、当時は大阪市内からのアクセスも良好ではありませんでした。したがって、一軍公式戦の開催はわずか33試合(一リーグ31、パ・リーグ2)。ウエスタン・リーグも50年代に数試合行っただけで、もっぱら南海の練習場として使用されました。

 球場が最もにぎわったのは1976年の春季キャンプの時でした。キャンプイン直前のトレードで阪神から江夏豊投手が入団。その江夏が第2の野球人生を中百舌鳥でスタートさせるとあり、初日の2月1日には球場始まって以来という3000人のファンが詰めかけました。翌日の報知新聞は「盛んな声援が飛び、中にはグラウンドまでおりて握手を求めるファンもいた。さながら中モズは“江夏狂奏曲”である」と伝えています。

「中百舌鳥は私にとってプロ野球の原点。野球道に励んだ道場とも言える神聖な場所でした」と語るのは、その江夏投手とも一緒にプレーをした池之上格(とおる)さん(70)です。鹿児島県の鶴丸高校から1973年南海へ投手として入団。80年から野手に転向し、翌年一軍に定着するまで多くの時間をここで過ごしました。

「私が入団した年に一塁側後方に公団住宅が完成しました。ファウルボールが飛び出ると危険なので、春先に阪神の二軍と行った練習試合が対外試合の最後でした。ネット裏のスタンド上段にSBOのカウント表示がありましたが、蛍光ランプではなく手作りの色付き画用紙でしたよ」と笑う。「ライト後方はゴルフのミニコースがあるレジャー施設でしたが、その一角でヤギやひつじなどの動物も飼っていて、風向きによっては糞の匂いがきつかったですね」。

 グラウンドの水はけは良く、外野は天然芝でした。「球場に整備員がいなかったので、春は1週間ほど遠征に出て帰って来るとタンポポなどの花が咲いていました。鎌でそれらを根っこから刈り取るのが恒例行事でした」と回想。なんとも牧歌的な光景が目に浮かびますが、“道場主”は厳しかったと言います。

「二軍監督は穴吹義雄さん。指導方針は“俺の色に染まれ”でした。誰よりも早くグラウンドに来て、遅く帰る熱心な方でした。野球をしっかりやることはもちろん、人間としての成長も求められました」。14階建ての団地が建ち、風通しが悪くなったグラウンドでの真夏の練習。「ユニフォームを脱いだら、日焼けで薄っすらと背中に(背番号の)『36』と付いていたこともありました」。想像を絶する走り込みで一軍マウンドを目指しました。

 念願の一軍デビューは4年目の1976年。4月10日の日本ハム戦で初登板すると、翌11日の同戦で早くも初勝利。前途洋々に思えましたが、7月25日の近鉄戦でともに当時のプロ野球新記録となる1イニング3暴投と11失点。「野村(克也)さんを3回も大阪球場のバックネットまで球拾いに走らせました(笑)」。77年10月6日の日本ハム戦では90球で完封勝利の「マダックス」を達成しますが、投手としては7年間で2勝にとどまり、80年から打者に転向しました。

「5年で寮を出て中百舌鳥から離れていましたが、これを機に球場の近くに戻って来ました。朝、昼、晩と中百舌鳥で練習しようと思いましたね」。打者として道場に再入門した池之上さんは、昼夜なくバットを振ります。投手時代、ウエスタン・リーグで4割を超す好打率を残した才能を開花させるのに、時間はかかりませんでした。

 転向2年目の1981年から一軍定着。そして83年に穴吹氏が一軍監督に昇格すると、10年間の指導ですっかり穴吹色に染まった秘蔵っ子は大躍進します。「二番・ファースト」の定位置をつかみ120試合に出場。自己最多の89安打、7本塁打。そしてプロ13年目の85年には出場100試合で、規定打席不足ながら初の打率3割(.301)を残しました。バットを短く持ち球に食らいつく粘り強い打撃は、目の肥えた野球ファンを魅了しました。

 中百舌鳥で過ごした日々から半世紀が経ちましたが、「今でも近くを通ると当時のことが鮮明に蘇ります。あそこは南海ホークスにとって鍛錬の場で、昭和の野球界を席巻したあまたのレジェンドが育った場所なのです」。池之上さんの言葉に力が入りました。岡本伊三美野村克也広瀬叔功皆川睦雄…。中百舌鳥で鍛えられた選手たちの活躍で、南海は1950年から66年までの17年間に9度の優勝。Vを逃した8年も全て2位と、圧倒的強さを誇った球史は今も燦然と輝きます。

 南海は1988年にダイエーへ譲渡され本拠地を福岡へ移転。それを機に野球場もプロ野球での使用を終了しました。その後10数年は地元市民の野球大会などで利用されましたが、老朽化もあり2001年11月で閉鎖。跡地にはマンションが建てられています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・池之上格さん