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【球跡巡り・第86回】新潟県で唯一、“伝統の一戦”巨人対阪神を開催した 新発田市営球場

 江戸時代には十万石の城下町として栄えた新潟県新発田市。明治から戦前にかけては軍都として発展をしました。この街に本格的野球場が造られたのは戦後の1950年。戦時中は営前練兵場だった場所の払下げを受け、総工費1050万円で両翼85.4メートル、中堅115.9メートルの市営球場が完成しました。

 「野球場の建設に尽力したのは、後に市長をされた野球連盟会長の近(こん)勇次さんでした」と語るのは、自身も新発田市野球連盟の会長を務めた神田武さん(85)です。「近さんは新発田市の高校野球を強化して甲子園に出場させたかったのです。それには立派な野球場を造らなければと考えたのでしょう」。ところが当時は戦後の復興事業が目白押しで、市の財政は苦しく職員の給料も遅配が続く状況でした。

 そこで野球連盟は後援会を立ち上げ資金面での援助に奔走。街頭募金をはじめ、市内各戸を訪れ一口50円の貸借募金を行いました。その甲斐もあって、完成した内野スタンドは新潟市の白山球場より6段多い13段。地元紙の新潟日報は「各地の球場の粋を集め、最大収容人員三万五千人の威容を誇る」と新球場誕生を報じました。

 1950年8月13日に西日本、国鉄、巨人、阪神のセ・リーグ4球団が集結して落成記念の変則ダブルヘッダーが行われました。スコアカードに記された観衆は1万人ですが、上記紙面には「気温34度の炎天下に2万人の観衆が集まった」とあります。いずれにしても、スタンドが超満員で埋まった試合を当時11歳(小学5年生)だった前出の神田さんが観戦していました。

 「野球場から徒歩2、3分のところに住んでいましたから、父親にチケットを買ってもらい三塁側スタンドの狭い席に座って一人で見ました。日射病になるんじゃないかと思うほど暑い日でした」。75年前の真夏の1日を聡明に記憶しています。

 「テレビのない時代でしたからラジオで実況中継を聴いていましたが、知っていたのは巨人と阪神ぐらいでした。その両チームの選手がすぐそこにいるのです。巨人の川上(哲治)さん、青田(昇)さん、千葉(茂)さん。阪神では藤村(富美男)さん。夢のまた夢のような時間でした」。ラジオの中のヒーローだったプロ野球選手が目の前で華麗にプレーした姿は、今も瞼に焼き付いています。

 「炎天下の試合ゆえか、両チームとも精彩なく巨人藤本(英雄)投手の巧みなコーナーワークのみが光った」と翌日の新聞に評された試合は9対5で巨人が勝利を収めました。「私が座った三塁側には阪神が陣取っていました。それでも応援していた巨人が得点する度に嬉しくて拍手をしていました」と神田さん。いまでは“伝統の一戦”と形容される巨人対阪神戦。その対戦は2024年末で2092試合を数えますが、新潟県での開催はこの1試合だけです。

 神田さんはその後、22歳から45歳まで高校野球などの審判員を務め、このグラウンドにも立ちました。「球場は水はけの良さが自慢でしたよ。国鉄(現JR)の新津駅から炭がらを無償でもらい、それを細かく砕き土と混ぜて撒いていました。ですからグラウンドの土は他の球場よりも黒く、水はけが良かったのです」。

 蒸気機関車の燃料として使用された石炭。その燃えかすの「炭がら」は直径10ミリほどの小石です。水分の浸透が早い特性があり、甲子園球場でも1990年代前半までは地中10センチほどのところに敷き詰めていました。新発田市営球場ではその炭がらを加工して、グラウンドに撒いていたのです。「水はけの良さから、高校野球の監督さんたちから“新潟の甲子園”とも言われましたね」。神田さんは嬉しそうに回想しました。

 プロ野球の公式戦開催は上記の2試合を含め4試合でした。その分、球場建設最大の目的であった市内の高校野球強化に活用されます。「昭和30年代には日大三や早稲田(ともに東京)、成田(千葉)に中京(愛知)などの強豪校を招き、地元の高校と試合をしました」と神田さん。その成果が実を結んだのは1961年の夏。北越大会に駒を進めた新発田農業が、決勝戦で同じ新潟代表の直江津高校を破り初の甲子園出場を果たしました。「近さんは甲子園のアルプススタンドで応援旗を振ったそうです」。昭和以降の甲子園出場校は新潟商業のみという球史に、新発田市の高校がピリオドを打った感慨が伝わります。

 1964年に開催された新潟国体では一般準硬式野球の会場となり、天皇・皇后両陛下をお迎えしての「天覧試合」も開催されました。当時、球場管理人を務めていた宮村信夫さんは「両陛下の前で仕事ができたことは生涯忘れられません。まだまだ、グラウンド整備やライン引きが上手く出来ない時でしたから、前任者の父から連日特訓を受けました」と、新発田市野球連盟記念史「60年のあゆみ」に思い出を語っています。

 戦後から新発田市の野球振興に貢献した野球場も、開場から40年以上を経過した平成時代に入ると老朽化が目立ち、1991年(平成3年)をもって閉鎖。その後は翌年4月に市内五十公野(いじみの)公園に完成した野球場に球史が刻まれています。新発田市営球場は1997年に解体され、跡地は陸上自衛隊新発田駐屯地のグラウンドとして使用されています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・神田武さん
斎藤太さん
新発田市立歴史図書館
参考文献・新潟日報(1950年8月14日)
新発田市野球連盟記念史「60年のあゆみ」新発田市野球連盟発行・編集
写真提供・新発田市野球連盟