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【記録員コラム】ストッキングの中に米を忍ばせ遠征列車に

 プロ野球が二リーグ制となった1950年、山口県下関市に誕生した大洋ホエールズ(現横浜DeNA)。拠点が本州最西端だったこともあり公式戦は遠征の連続でした。そのチームに在籍し、3月10日の開幕戦(対国鉄=下関)のマウンドを任され完封勝利を飾った今西錬太郎投手に、スコアカードの裏に隠された遠征の思い出を伺いました。(前回のコラムはこちら)

 今西さん(96)は戦後、プロ野球が再開した1946年に阪急に入団。3年目の1948年にはチーム最多の23勝を挙げるなど、1949年までの4年間で70勝をマーク。1950年、大洋に移籍しました。プロ野球入団の年に結婚して子供もいましたが、下関では大洋漁業の寮に住み単身生活。「開幕戦には嫁と子供が下関まで応援に来てくれてね。たしか、駅前の旅館に泊まりました」。90代も半ばを過ぎたとは思えない張りのある声で、70年以上経った昭和の記憶をたどってもらいました。

 前回のコラムで西日本の75日間にわたる遠征を紹介しましたが、大洋もそれに匹敵する遠征記録が残ります。6月21日の金沢兼六園から8月27日の後楽園まで、前後の移動日を含めると69泊70日。17球場で36試合を消化しました。北は北海道旭川市から西は山口県徳山市までを駆け巡った夏…。残念ながら遠征風景は思い出せませんが、選手としての苦い思いは蘇ります。実はこの時、野球人生最大の危機に直面していたのです。

 5月17日の松竹戦でした。6回から救援した今西さんは、8回に小鶴誠を打席に迎えます。その5球目、弾き返された痛烈な打球がみぞおち辺りを襲い、右手に直撃。幸い骨に異常はありませんでしたが、1カ月以上の戦線離脱。大分県別府市での温泉治療を経て、この遠征から合流しました。「スナップを利かして投げると、ピシッと痛みが走ってね。腕を思い切り振れなくなったんです」。その言葉を裏付ける戦績が残ります。復帰戦となった7月2日の国鉄戦で黒星を喫すると、遠征期間中8試合に登板しましたが、勝ち星なしの4連敗。防御率は4.80でした。

 

 遠征後の9月以降に白星を挙げ、なんとかシーズンでは10勝(13敗)をマーク。しかし、「あれで野球人生は終わりましたね」というほど後遺症に悩まされた大きなアクシデント。ケガからの復活を思うように果たせず、暗闇に包まれた中での2カ月以上に及ぶ長期ロードはさぞ辛かったことでしょう。それでも今西さんが、この時を含め大洋時代の遠征の苦労話を口にすることはありませんでした。それは入団1年目の1946年、戦後の日本がいたる所で厳しい食糧事情に直面していた時、忘れられない体験をしているからです。

 

 1946年のプロ野球は8チームで1リーグ制。甲子園は進駐軍に接収され、試合は主に西宮と後楽園球場で行いました。住まいがあった兵庫県から東京への移動は夜行列車。「いつも満員でね。通路に新聞紙を敷いて横になったもんです」。眠れぬ夜を過ごし、たどり着いた東京駅。しかし、終戦から歳月も浅いこの時、後楽園周辺は食糧難で泊まれる旅館がありません。宿は千葉県松戸市でした。「ここまで行くと、いいお米がたくさんありました。旅館で食事をいただき、弁当を持って常磐線で後楽園へ通いましたよ」。当時の新聞を見ると、阪急のほかに阪神、パシフィックも松戸市に投宿。相手チームと戦う以前に、食糧事情を克服しなければならなかった社会情勢が垣間見えます。

 西宮球場が中等学校(今の高等学校)野球大会開催で使えなかった夏。熊本、福岡を回る九州遠征がありました。「地方へ行くとね、貴重なお米が手に入ったの。でもヤミ米だから憲兵さんに見つかると大変。ユニフォームのストッキングに左右一升ずつ隠して、列車に乗り込んだもんです」。次の開催地へユニフォームのまま列車移動していたことも衝撃的ですが、そのストッキングの中に米を忍ばせていたとは驚かされます。そんな冷や汗が出るような遠征も、今西さんは「嬉しかった」と回想します。厳しい食糧難の中、家族を養う大黒柱にとってヤミ米とは言え貴重な米が手に入ったことは、遠征の苦労を消し去るほどの喜びだったのでしょう。

 今西さんは1952年まで大洋に在籍した後、阪急、東映と移籍し1955年限りで引退。10年間の現役生活でした。いま、同居する息子夫婦が旅行に誘っても「僕は野球で全国を回ったから、行かなくていいよ」と、やんわり断るそうです。あらためて在籍チームの記録を調べると、40都道府県を巡り、101球場で試合を行っていました。まさに当時の野球選手にしかできない全国行脚を、今西さんは体験されていました。

 プロ野球における遠征史を調べてみよう―。そう思ったのは、昨年の新型コロナウイルス感染拡大による大幅な日程変更でした。フランチャイズ制確立以前の壮絶な長期遠征に、スコアカードをめくる手が止まりました。ライバル球団だけでなく、食糧難とも戦った今西さんの話には、終戦直後の混乱した社会を思い浮かべました。いかなる状況でも、途切れることなく球史を紡いできた先人たちに、あらためて敬意の念がわきます。2021年のシーズンが始まりました。相変わらずのコロナ禍で予断を許さない状況が続きますが、今年は予定通り全ての試合が開催されることを願います。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・今西錬太郎さん
今西潤子さん
写真提供・今西錬太郎さん