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【球跡巡り・第58回】「権藤、権藤、雨、権藤」 伝説の右腕を育んだ 久留米ブリヂストン球場

 日本のゴム産業発祥の地として知られる福岡県久留米市。JR久留米駅前の広場には直径4メートル、重さが約5トンもある世界最大級のタイヤが展示されています。この地にはタイヤの製造で世界的知名度を誇る株式会社ブリヂストンが建造、管理した「久留米ブリヂストン球場」がありました。

 完成は1949年11月。社内に結成された野球部の練習場として造られました。プロ野球は1950年4月28日の西鉄対阪急戦を皮切りに、地元福岡県に拠点を置く西鉄が1959年までの間に9試合を行いました。その球場で高校卒業後からプロ入りするまでの4年間、青春の汗を流したのが1960年代に中日で活躍した権藤博さん(83)です。

 権藤さんは鳥栖高校3年の秋、西鉄ライオンズとブリヂストンタイヤのテストを受けました。「西鉄が声をかけてくれて三原(脩)さんと川崎(徳次)さんの前で投げた。それが自信になり、次のブリヂストンのテストでは誰もバットにかすらなかった」と振り返ります。先にブリヂストンから合格通知が届いたことと、当時はまだ体重62キロと体が細かったことで西鉄を断りました。

 1957年春、久留米工場の用度課に配属されました。「8時10分始業で16時10分終業。野球部は14時に上がって練習だったね」。当時の福岡県は社会人野球が盛んで、近くには日鉄二瀬や東洋高圧大牟田。北九州地区には八幡製鉄、門司鉄道局と全国に名を馳せる名門がひしめいていました。そんな中、ブリヂストンタイヤは「同好会のようなチーム」で、練習は個々の自主性に委ねられていたそうです。華奢だった権藤さんは体力作りに勤しみました。「腹筋、背筋にランニング。球場近くにある筑後川の川べりを毎日走った。徐々に体が強くなり、球も速くなったよ」。

 手応えを掴んだのは3年目でした。「ブリヂストンの球場に日本石油や日本通運、立教大などが来て試合をしたけど、ほとんど打たれなかった」と振り返ります。対戦した投手には1957年の第3回世界野球大会で日本の優勝に貢献した堀本律雄(日本通運)もいました。「堀本さんはものすごい球を投げていた。でもブルペンの後ろで見ていた同期入社でバッテリーを組む堤田忠夫が、“ゴン(権藤)のほうがすごい球だよ”と言ってくれてね」。堀本は1957年の都市対抗野球で4勝を挙げ久慈賞も獲得。当時「社会人NO.1投手」と言われていただけに、仲間の一言で権藤さんが得た自信は計り知れません。

 4年目、その名を全国に轟かせます。都市対抗野球の北九州南部予選初戦で、強豪日鉄二瀬を相手に延長10回まで無失点の快投。11回に1点を失い力尽きましたが、「九州に権藤あり」のアピールには十分でした。その後、北九州代表になった日鉄二瀬の補強選手として出場した全国大会では2試合に登板。計7イニングを無失点に抑えたピッチングが、古巣への置き土産となりました。

 1961年、体重は8キロ増えて70キロに。4年間でたくましくなった下半身を携え、プロ野球の門を叩きました。「1960年に巨人に入った堀本さんが1年目に29勝を挙げた。少なく見積もっても半分の15勝は出来ると思った」と権藤さん。果たして、69試合に登板、35勝19敗、防御率1.70。結果はもちろん、内容もすさまじく、32完投、12完封。尋常ではない連投で積み重ねたシーズン429イニング1/3と、8月の月間99イニングの投球回はともに二リーグ制後最多で、永久不滅の大記録です。「権藤、権藤、雨、権藤」。今も語り継がれる有名なフレーズは、奇遇にも巨人時代の堀本が報道陣に漏らした言葉が元になっていると伝わります。

 寂しい知らせが届いたのはプロ2年目を終えた秋でした。ブリヂストンタイヤ野球部の廃部が決まったのです。「創業者の石橋(正二郎)さんは水泳に力を入れていましたから」と権藤さんが言うように、社内には全日本トップクラスのスイマーが所属。会社も市内の小中学校にプールを寄贈するなど、水泳を通して企業価値の向上と地域社会の発展に注力したのです。

 野球場は10年あまりで主を失いましたが、昭和の時代はずっと存続。福利厚生施設として社内ソフトボール大会や運動会が行われました。平成に入り閉鎖、撤去された跡地にはグループ会社の倉庫が建っています。残念ながら野球場だった形跡を偲ばせるものはありませんが、まぎれもなくこの地は1960年代の初め、日本球界に「閃光(せんこう)」を放った右腕の故郷なのです。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・権藤博さん
株式会社ブリヂストン 久留米工場

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