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【球跡巡り・第85回】巨人90年の球史で一度だけ行われた「校庭」での試合 柏崎高校グラウンド

 新潟県のほぼ中央に位置し、日本海に面した柏崎市は柏崎刈羽圏域の中心として栄えて来ました。この街にプロ野球が初めて足を踏み入れたのは二リーグ分立直後の1950年。市制10周年記念行事として柏崎野球協会が公式戦を誘致し、巨人対大洋の一戦が行われました。

 ただしこの時、市内に公設球場はありません。そこで白羽の矢が立ったのが、普段から高校野球の県予選や市の野球大会などを行い「柏崎高校球場」とも呼ばれていた県立柏崎高校のグラウンドでした。ここは戦時中、芋畑として開墾されていましたが、終戦後に全校生徒の協力で整地されます。そして砂に埋まっていた内野スタンドも掘り起こされ、野球場の趣もありました。プロ野球開催にあたり外野には高さ1メートルほどの金網が張り巡らされました。

 迎えた7月18日。午後2時開始の試合にもかかわらず、熱心なファンは深夜2時ごろから校門付近に詰めかけ、開場の午前6時には行列ができるにぎわいでした。午後1時過ぎにスタンドは満員となり、定刻にプレイボール。巨人の先発は藤本英雄。6月28日の西日本戦(青森市営)でプロ野球史上初の完全試合を達成した、時のヒーローに9000人の観衆の視線が集まります。藤本はここまで地方球場では7勝1敗、防御率1.50と好成績でした。

 ところが百戦錬磨の右腕も校庭のマウンドは合わなかったのか、この日は初回に先制点を許すと3回までに8安打を浴び4失点と乱調でした。巨人は打線も奮いません。四番を打つ川上哲治内野手が2安打を放ったものの、大洋の本間鉄和高野裕良両投手の継投に7安打、1得点。試合は大洋が5対1で快勝しました。

 巨人は昨年球団創設90周年を迎え、1万試合を超す公式戦を行なっていますが「校庭」での開催はこの1試合だけです。果たして、球団史で唯一となる貴重なゲームを観戦した証言者は見つかるのか―。

 報知新聞社の樋口智城記者は昨年、スポーツ報知の紙面企画で現地に足を運び興行の背景を探るとともに観戦者を探しました。「終戦から5年。徐々に復興が進む中で市制10周年を迎え、気合いの入ったイベントが多くあったようです。プロ野球開催はお祭りの一つだったのでしょう。駅前通りに和菓子屋さんがあり、そこの主人のお父さんが観戦されていたようです。でも、残念ながら少し前に亡くなられていました」。開催から70年余りが経過した歳月の壁は厚く、高かったようです。

 私は柏崎高校OBで野球を中心に執筆活動を行うライターの楊順行さん(64)を訪ねました。「野球好きの兄に教えてもらったのか、柏崎高校でプロ野球が行われたことは早くから知っていました。社会人になって、偶然同じ職場になった高校の先輩の田村大五さんからもその話は聞きました」。田村さんは、新聞社を経てベースボール・マガジン社に勤務。週刊ベースボール誌上で「白球の視点」というコラムを連載したベースボールコラムニストです。

 1935年2月生まれで野球開催時は15歳。おそらく高校1年生で在学中だったと思われます。「田村さんはその試合を観戦していて、巨人の川上選手とトイレで一緒になり、並んで用を足したそうです。ただ、肝心の試合内容は聞いたことがなくて…」。田村さんも15年以上前に鬼籍に入られています。楊さんのネットワークで何人かのOBに声を掛けてもらいましたが、芳しい返事はありませんでした。

 そんな折、柏中・柏高OB会事務局の村田孝夫さん(78)から一冊の本を紹介されました。2002年に発刊された「柏崎野球連盟史・第3集」の編集者は、柏崎市民球場(廃止)の管理人などを務めた小山正造さん(故人)。その小山さんが昭和25年の回顧の中で、当日の試合について感想を記していました。

「待望のプロ野球公式戦は市制10周年の一環として行われた。だが試合はファンが望む通りには進まず、思うような展開(注:巨人の勝利)にならなかったので相当失望させられた。それでも藤本のピッチング、川上、青田昇(巨人)のバッティング、外野手の捕球技術などは勉強になった」

 試合が行われた1950年は巨人が誕生して17年目。一方の大洋は49年暮れに山口県下関市で産声を上げた新興球団です。球史の差もあってか、その記述からはスタンドを埋めた観衆の多くが巨人ファンだったことが伝わります。

 グラウンドでは巨人の二軍戦も数試合行われ、地元三条市出身の馬場正平投手(後のプロレスラー・ジャイアント馬場)が投げており、こちらはみんなが知るところのようです。しかし、一軍公式戦開催はこの1試合だけ。巨人90年の球史においても唯一の校庭での試合だけに、小山さんの観戦記は貴重な資料です。

 75年経ったグラウンドは、当時と変わらず硬式野球部の練習場として使用されています。一、三塁の内野スタンドは撤去されましたが、バックネット裏にはわずか5段ながらコンクリートのスタンドが残され「柏崎高校球場」と呼ばれた時代の面影を今に伝えています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・村田孝夫さん
楊順行さん
樋口智城さん
新潟県立柏崎高等学校
参考資料・「柏崎野球連盟史・第3集」小山正造編集
スポーツ報知(2024年10月13日)
「創部100周年記念史」柏崎高校野球部創部100周年記念事業実行委員会
「創立30周年記念誌」柏崎高等学校
「回顧八十年」柏崎高等学校