【球跡巡り・第88回】巨人が九州で初めての公式戦を行った 飯塚市営球場
福岡市のJR博多駅を出発した「福北ゆたか線」の直方行き快速列車は、咲き誇る桜を車窓に映しながら峠を越え、かつて石炭の採掘で栄えた筑豊の街へ。約40分で炭都の一角を担った飯塚市の新飯塚駅に着きました。
この地に公設の飯塚市営球場が造られたのは今から90年以上前。大正の頃から飯塚周辺にはスポーツ愛好者が多く、柔道や剣道、野球などが盛んでした。しかし、柔道や剣道を行う施設はありましたが野球場はなく学校の運動場を利用していました。そこで市制が敷かれた1932年に市民の要望に応え球場建設計画が立てられ、市内立岩の丘陵地に34年10月待望の野球場が完成しました。




当初は陸上競技場も兼ねていたため、外野は全く囲いのない変形のグラウンドでした。戦時中は食糧増産のため畑に転用され、戦後しばらくは荒廃していましたが、1948年に改修工事を実施しプロ野球公認球場となったことから初の一軍公式戦を開催。同年4月22日に阪急対巨人戦が行われました。
九州でのプロ野球は1946年夏に始まっていますが、巨人にとってはこれが初の公式戦でした。久留米商業出身の川崎徳次投手と熊本工業出身の武宮敏明捕手がバッテリーを組み、同じく熊本工業出身の川上哲治選手が一塁、田中資昭選手が三塁で出場と九州にゆかりのある選手がスタメンに名を連ねました。川崎投手は2回4失点で降板と乱調でしたが、一番を打った田中選手が3安打3打点の活躍。試合は巨人が8対5で打ち勝ちました。2024年シーズン終了までに九州で85勝(70敗5分)を挙げた巨人の球史は、ここ飯塚市営球場から始まったのです。
ところで、なぜ巨人の九州での初試合が当時は決して交通も至便と言えなかった飯塚市で行われたのでしょう。本州から関門海峡を渡ると、現在の北九州市があり、ここには門司老松球場や八幡製鐵大谷球場がありました。本来ならここらでの開催が自然ですが、当時の飯塚市は炭鉱で栄え人口が多く、野球熱も高かったことから多くの集客が見込めたのです。遠賀川を挟んで対岸の二瀬町(1963年4月から飯塚市)には大正時代に発足の社会人野球の名門「日鉄二瀬」もありました。
「野球場大辞典」(沢柳政義著)によると1948年に改修後の収容人員は1万人。ところが、この日は平日の木曜日ということもあり入場者は4500人と肩透かしを食らいました。スコアカードの雑記欄にも「炭鉱が休みではなく、客足悪し」と書いてあります。石炭という“黒いダイヤ”を採掘する男たちは、平日に容易に休みを取れる環境ではなかったのです。
1950年3月30日には二リーグ分立を機に福岡県に誕生した西鉄クリッパースが南海と対戦しましたが、この日も平日(木曜日)開催だったことで観衆はわずか3000人でした。それでもスタンドが大きく沸く場面がありました。日鉄二瀬から西鉄に入団した内田蒼生也(そうや)投手が凱旋登板を果たしたのです。
西鉄の先発は大崎憲司投手でしたが、初回に3点を失うと、2回も一死から3連打を浴び1失点。走者一、二塁とピンチの場面で内田投手がマウンドに上がりました。別府星野組(大分県)から日鉄二瀬を経て22歳でプロ野球の門を叩いた右腕はこれがプロ初登板。第一打者の飯田徳治選手は中飛に打ち取りますが、続く堀井数男選手にはレフトスタンドへ3ランを浴びました。結局、最後まで投げ切り7回2/3で3本塁打を打たれ4失点。思い出の地に刻んだプロの第一歩は、ほろ苦いものとなりました。
一軍公式戦は上記2試合を含めても4試合。他の2試合も二リーグが始まった1950年に行われており、プロ野球が開催されたのは48~50年までのわずか3年間でした。両翼まで272フィート(82.9メートル)と外野は狭く、グラウンドを囲むフェンスも木製の板を繋げた簡素な造り。スコアボードもなかったことから、52年にフランチャイズ制度が確立すると興行は控えられたようです。
主に高校野球の県予選や、軟式野球の試合などで筑豊の野球人に親しまれた球場でしたが、2000年に県営の筑豊緑地野球場が市内に完成すると老朽化もあり役目を終え2015年3月限りで閉場されました。スタンド等が撤去され更地になった跡地は球場の輪郭をほぼ残したまま2020年から住宅地になり、約40戸の一軒家が建ち並んでいます。
外野スタンド後方だった場所に新居を構えた30代の男性は「私は宮崎県の生まれなので球場を見たことはありませんが、ここが野球場だったことは聞いていました。でもプロ野球が行われたとは知りませんでした。てっきり、地元の人達が使う小さな球場だと思っていました」と驚きました。
その男性は子供のころには宮崎市で行われていたプロ野球のキャンプに頻繁に足を運び、中学時代は野球部で白球を追ったそうです。私が1948年に行われた阪急対巨人のスコアカードを見せて、巨人の川上さんも出場していたことを伝えると「あの川上さんがですか」と目を丸くしました。永住を決めた地が、かつて“打撃の神様”がプレーし、九州における巨人スタートの場所とは想像もしなかったことでしょう。
【NPB公式記録員 山本勉】
調査協力・ | 飯塚市立図書館 松永一成さん |
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