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【球跡巡り・第38回】初の日本一決定戦の舞台 洲崎球場

 東京メトロ東西線の東陽町駅で下車し地上へ。途切れることなく車が行き交う永代通りから少し路地を入ると、東京都の江東運転免許試験場があります。その対面に「伝統の一戦(巨人・阪神)誕生の地」と記された記念碑が建てられていました。かつてこの地に、プロ野球草創期の伝説の舞台となった洲崎球場があったのです。

 球場が完成したのはプロ野球が誕生した1936年の秋。東京では8月に開場した上井草球場に次ぐ2番目のプロ野球専用球場で、大東京軍が建設したことから大東京球場とも呼ばれました。起工式からわずか51日間の突貫工事で完成した球場は、周囲がトタン板で囲われ、内野スタンドは木造の10段式。しかし、敷地は昭和初年に埋め立てられたばかりで地盤は不安定。杭が打ち込めず、スタンドは地面に置いただけのものでした。

 選手の更衣室はなく、ダッグアウトも土を少し掘っただけの砂場のようなスペースと簡素な造りでした。それでもグラウンドでは巨人の沢村栄治スタルヒン、阪神の景浦将若林忠志らの猛者たちが躍動し、スタンドは下町の野球ファンの歓声で賑わいました。

 プロ野球初の年度優勝決定戦はここで行われました。1936年秋の優勝決定は、9月から6大会を行い合計勝ち点を争う方式でしたが、巨人と大阪タイガース(現阪神)が並びました。そこで12月9日から3試合の決定戦に。巨人が先勝し、タイガースがタイに持ち込み迎えた第3戦は巨人が4対2で勝利し、プロ野球最初の日本一に輝きました。この洲崎3連戦にフル回転したのが巨人沢村投手。タイガース打線相手に渾身の3連投は、後に軍隊入りした沢村が「戦場での戦いよりきつかった」と語ったほどでした。2021年シーズンに節目の2000試合目を迎える“伝統の一戦”は、この洲崎決戦から脈々と受け継がれているのです。

 開場2年目の1937年にはノーヒットノーランが3度も記録されました。5月1日の巨人対タイガース戦では、巨人沢村が前年に続き自身2度目の偉業を達成。試合終了と同時にスタンドからは何百枚もの座布団が投げ込まれ、東京湾からの風に乗り、ひらひらと宙を舞ったそうです。7月3日には同じく巨人のスタルヒンがイーグルス相手に達成しましたが、この試合の観衆はわずか265人。沢村とは対照的に、あまりにも寂しい舞台でした。その13日後の7月16日には、阪急の石田光彦がセネタース相手に球団史上初の快挙を成し遂げました。完全試合を含め、ノーヒットノーランはこれまで93回記録されていますが、同一球場で1年間に3回達成されたのはこの年の洲崎球場だけです。

 前代未聞の「水没コールドゲーム」の歴史も残っています。球場があった場所は、埋め立てが進んだ現在の地形とは違い、外野スタンドのすぐ後ろに東京湾が広がっていました。しかも海抜はわずか60センチ。試合のない日には、さざ波の音も聞こえたと伝わります。事件が起こったのは1938年3月15日、巨人対金鯱のオープン戦ダブルヘッダー2試合目の4回でした。グラウンドに大量の海水が流入してきたのです。原因はおりからの高潮に加えて、球場横にあった掘割の堤防が崩れたことによるものでした。一塁側に陣取っていた巨人は、ベンチをコーチャーズボックスの近くまで移動させましたが、海水の流入は止まりません。結局、5回終了時点で試合続行不可能となりコールドゲームが宣告されました。

 この試合の塁審を務めていたのは島秀之助。前年まで金鯱の外野手として洲崎球場でプレイし、この年から審判員に転身しました。1995年に亡くなった島は生前「よく水が出たが、湿った程度じゃなくピチャピチャするほどだった」との証言を残しています。また、地元の江東区が1997年に刊行した「江東区史・中巻」にはファンの話しとして「スタンドにカニがはいずっていた」「グラウンドの中から貝殻が出てきた」など、水に関するエピソードが紹介されています。

 1937年には92試合の公式戦開催とフル回転しましたが、このようにグラウンド・コンディションに大きな課題を抱えていました。この年の秋に後楽園球場が完成すると、翌年の開催はそちらが中心となり、1938年6月12日の名古屋対巨人の一戦を最後に洲崎球場から球音が消えました。1936年11月29日の洲崎シリーズ初日から、わずか1年7カ月という短命で役目を終えたのです。

 球場は戦時中の1943年ごろ解体され、跡地には民間企業の社屋が建てられ、当時の面影は全く感じられません。冒頭の記念碑横の歩道を、多くの人が足早に通り過ぎて行きました。

【NPB公式記録員 山本勉】

参考文献・「洲崎球場のポール際」森田創 講談社
東京中日スポーツ 「ボクの思い出STADIUM」(2016年1月27日)
「江東区史・中巻」江東区
写真提供・野球殿堂博物館