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【球跡巡り・第93回】“代打の神様”川藤幸三が放った逆転満塁本塁打 福井市営球場

 2024年春に北陸新幹線の金沢―敦賀間が開通し、首都圏からのアクセスが便利になった福井県。その玄関口となるJR福井駅も新幹線開業に伴いリニューアルされ、多くの観光客でにぎわっています。その福井駅の東口から歩いて5分ほどのところに東公園と小さなグラウンドがありますが、ここには福井市内で最初に造られた福井市営球場がありました。

 市内には野球場にも劣らない規模のスタンドを備えたグラウンドを持つ福井高等工業学校(福井大学工学部の母体)や、福井市立高校(現福井商高)があり、旧制中学の野球大会はここで行われていました。それもあってか公設球場の建造は県庁所在地としては遅く、戦後の1948年。旧福井師範学校の跡地に両翼90.6メートル、中堅100.6メートルとコンパクトサイズで造られました。当初のスタンドは木製でしたが、1963年ごろ鉄筋コンクリート製に改築されました。

 プロ野球は一リーグ時代の1949年から公式戦を行い、58年までの10年間に26試合を行っています。1950年7月21日の巨人対中日戦では中日2年目の杉下茂投手が巨人打線を散発4安打に抑え、三塁を踏ませず完封勝利。セ・リーグ9シーズンで203勝の杉下は対巨人戦で歴代5位の38勝を挙げ、4位タイの8完封をマークしましたが、その最初の完封勝利がこの福井市営球場での試合でした。

 阪神一筋19年。多くのタイガースファンから愛された川藤幸三さん(76)にとっては、若狭高校3年生の夏に甲子園出場を決めた思い出深い球場です。

 春のセンバツ大会に出場した若狭は県予選を順調に勝ち上がり、北陸高校とともに石川県代表の2校と出場権を争う北陸予選に駒を進めました。「センバツにも出た。練習も厳しいし、早いとこ負けて海にでも行って普通の高校生みたいな夏休みを送ろうや」と仲間と話しながら臨んだ大会でした。

 そんな心境も影響したのか初戦の小松工戦は6回を終って0対4と劣勢でした。7回に1点を返しますが、3点差のまま9回裏二死まで追い込まれました。敗戦濃厚。続く打者もセンターへ平凡なフライを打ち上げます。「終わったと思った」が、なんとここで相手野手が捕球時に太陽光線が目に入り落球。「そこで、こんなチームに負けてたまるかと気運が高まった」と振り返ります。この回に同点に追いつくと、延長11回裏に1点を取ってサヨナラ勝ち。相手ブロックを勝ち上がった羽咋高校(石川県)と代表の座を争うことになりました。

 1967年7月30日。雲一つない真夏の晴天。一塁側ベンチに陣取った若狭。川藤さんの目に飛び込んだのは、三塁側スタンドに掲げられた「羽咋市民3万人の願い。若狭を破って甲子園へ!」の横断幕でした。決勝戦を迎えてもいま一つ気乗りしなかった川藤さんの闘志に火がつきました。

 5回まで両チーム無得点の好ゲームは6回表に羽咋が1点を先制。その裏、一死満塁のチャンスに四番を打つ川藤さんに打順が回って来ました。「ワシは監督さんのところに駆け寄って“スクイズのサインだけは出さないでください”と言ったんや。そしたら“思い切って行け”と言われてね」。意気に感じた川藤さん。打席へ入る前にバットを振っていると、左ひじが首から下げたお守りに触れました。「その時、パッと和尚さんの顔が浮かんだんや」。和尚さん―。夏の予選大会の開幕前、甲子園を目指す川藤選手にそのお守りを授けた人でした。

 JR小浜駅近くにある古刹「仏国寺」。川藤さんは高校2年の夏からこのお寺で座禅を組み始めました。「それまでのワシはいいかげんな人間やった。このままではチンピラ川藤のままで終わってしまうと思ったんよ」。一念発起した川藤さんは、寺で第13代住職を務める原田湛玄(たんげん)師のもとへ通ったのです。毎朝4時に起床。4時30分に下宿を出て、30分走ってお寺に到着。「毎朝15分の座禅を2回組んだよ。新チームになってから始めて、翌年の夏の予選が始まる前日まで続けた。休みは元日の一日だけやったな」。17歳の青年は雨の日も風の日も修行僧のごとく自己を見つめ直したのです。

「(満塁の打席は)神様が与えてくれたチャンスだと思った。ワシがそこまでやって来たことが正しかったのか、答えを出す場面やったね」と58年前の一打席を振り返る川藤さん。「初球にカーブが来る」と読んで打席に入ります。果たして、羽咋・横山投手の投じた初球は肩口から入る甘いカーブでした。川藤さんがバットを一閃すると打球は鮮やかな放物線を描いて左中間スタンドへ。逆転の満塁本塁打。「よし、来た!という感覚は全くなかった。勝手に身体が反応したよ」。終盤にも追加点を挙げた若狭は6対1で羽咋を破り、夏の大会では4年ぶり5回目の甲子園出場を決めました。

「和尚さんはホンマに凄い人やった。にらめっこをしても絶対に勝てなかった。ワシが精一杯大きな目をして睨んでも、さらに大きな目で睨み返され、最後は飲み込まれてしまった」。在りし日の住職との出来事を懐かしく振り返ります。「和尚さんとの出会いがなかったらあの本塁打は打てんかったやろうし、その後のプロ野球人生も絶対になかった」としみじみ語る川藤さん。阪神入団後も原田住職への師事は不変だったそうです。

 この頃、福井県では翌1968年に開催の国民体育大会に向け新球場を建設。67年8月に市内福町に県営球場が完成し、翌年から夏の予選大会はそこで開催されました。川藤さんが代表決定戦で放った貴重なアーチは、福井市営球場で最後に刻まれた夏の大会の本塁打になりました。

 市営球場はその後40年近く市民の野球大会などで使用されましたが、施設の老朽化、市内安田町に新球場の完成もあり、2008年7月に閉鎖されました。球場が解体された跡地は前出の公園等になっています。

【NPB公式記録員 山本勉】

調査協力・川藤幸三さん
坂孝一さん
野球殿堂博物館
写真提供・福井市立郷土歴史博物館